HOME学部の教育教員紹介 近藤 真宣 教授

留学生を対象とした日本語・日本事情教育を担当

近藤-真宣

近藤 真宣 教授

慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。1988年から(財)交流協会(台湾)高雄事務所に日本語専門家として勤務。1992年、拓殖大学外国語学部専任講師。国際学部へは2000年から。

インタビュー

  • Q
    先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • A
    学部から大学院時代の専攻は、現職とはまったく関係のないイスラム史でした。もっとも、これも、それを意図して大学に入ったわけではありません。 私の場合、高校から大学付属校(いわゆるエスカレータ校)に入学したものですから、大学入試のことなど考えずに課外活動に没頭していました。所属はスキー部で、(大学並みに長い)冬・春休みはほとんど雪の上にいました。埼玉県というスキー弱小県の高校だったこともあり、高校3年のときにはインターハイと国体にも出場することができました(少し自慢です)。おかげで、成績は伸びず、大学進学時には行きたい学部を選べるような状況ではありませんでした。そんなわけで不人気学部(うちは男子校です)の文学部に回され、何を勉強するのかも考えずに大学に進学したものです。結局、これが勉強したいとはっきり定まったのは大学入学3年目、2度目(!?)の2年生のときでした。それが、第1次、2次石油ショックを経て、日本でもその名を聞くことの多くなっていたアラブ世界とイスラムでした。それから、アラビア語の勉強を始めました。最初は30人以上いたクラスが、1年が終わるころには2人になるという厳しい関門(?)をくぐり抜け、卒論を書くころには、辞書をあまりひかずに、アラブの歴史書やクルアーンも原文で読めるまでになりました。高校3年間勉強しなかった分もこの時期に集中して勉強して、その楽しさに目覚めたのでしょう。私の通っていた大学の教員ではありませんでしたが、卒業生で日本を代表する研究者の方に連絡を試み、頼みこんで卒論指導をお願いしたりしたこともありました。そのような熱中の延長で、結局大学院進学を選びました。
    ちなみにスキーですが、高校時代ほど没頭することはなくなりましたが、同好会に所属し草大会に出てはときどき小さな賞品を稼ぐぐらいの活動は続けていました。
  • Q
    その後、日本語教育の分野に進まれたきっかけは何ですか。
  • A
    大学院(修士課程)に進みましたが、そのころ日本でも脚光を浴びはじめていたアナール学派の手法を自分の研究に応用できないかと考えたものの、自分の研究対象において利用可能な史料の質の違いという壁にぶつかり、悩みはじめていました。それでも、ここまで来たらと博士課程進学を目指しましたが、敢えなく失敗。就職もままならず、もう一度だけ博士課程に挑戦するまでの「つなぎの学生証」入手のために、大学に設置されていた「日本語工員養成講座(2年コース)」の受講生になることにしました。
    というわけで、最初は、つなぎのつもりだったのですが、勉強をはじめてみるとこれが面白い。日本語教育の世界もやっと専門分野として立ち上がりはじめたばかりで、まだ答えの得られていない日本語の語法、教育方法の問題がたくさんあるのです。1年目が終わるころには、イスラム史研究よりも日本語(教育)研究を続けていきたいと思うようになってて、博士課程受験は先送りにしました。養成講座2年目には先生たちの紹介で、あちこちのプライベート・コースで実際に教える経験もつみ始めました。そして、その年の秋口にある先生から、台湾へ行って日本語を教えてみないかと聞かれたのでした。これに「はい」と答えたとき、私は「日本語教師」としての道を歩きはじめたのです。
  • Q
    なにか特筆すべきエピソードや人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • A
    私の場合振り返ると、積極的に志望して次の道へと進んできたとは言えそうもありません。また、スキー漬けの高校時代、アラブ・イスラム漬けの大学・大学院時代、日本語教育転身後、とそれぞれの間には断絶があります。ある意味、今の私がここにこのようにしているのは、偶然の積み重ねの結果にすぎないともいえます。私の場合、大学入学時、大学院(博士課程)進学失敗時に、それぞれ興味を持てるものに出会うことができ、その後は充足した日々を送りました(これは自分の行動ですね)。そして、それらに熱中する中で先生、先輩たちの手助けを得ることになり、何度も転機を迎えることができたと思っています。このような言い方は危険かもしれませんが、この先どうなるか、今の道が続いているのかなどわかりませんし、それだけに心配してもしかたありません。まずは、今を充足させられるよう努力をすることです。それを価値あるものと認めてくれる人が回りにいれば(そのような人が回りにいる環境に身を置くのも努力のうちです)、その人たちが道を進む助けになってくれるでしょう。逆に、仮に今の境遇に対して不満があったとしても、それに腐っているだけでは、そうした助けはえられず、どこにも進めません。
  • Q
    拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • A
    1990年4月に台湾から帰国してからは、母校の日本語コースの非常勤講師として生計をたてていました。そんなとき、拓殖大学の教員となっていた日本語養成講座の先輩のつてで、1991年4月から拓殖大学別科の非常勤講師もすることになりました。そのころ、拓殖大学は、マレーシア政府が日本に派遣する国費留学生の予備教育をマレーシアで行なうというプロジェクト立ち上げに関わりはじめていました。そして、その予備教育において日本語教育は拓殖大学が担当することとなったのです。そこで、マレーシアに派遣する教員が必要となります。私を非常勤講師として読んでくれたその先生が今度は、私の台湾経験を見込んでか、拓殖大学がマレーシア行きを条件に専任教員を募集しているが、応募してみるかと誘ってくださったのです。そして、選考を経て1992年4月に拓殖大学外国語学部専任講師となりました。当初はその年の7月からマレーシア派遣の予定でしたが、計画が遅れ、翌1993年4月からの赴任となりました。
    その後は、再度のマレーシア赴任もありましたが、2000年4月の国際開発学部開設が決まると、定員70名とかなりの人数となる留学生の日本語教育のまとめ役として、国際開発学部へ移籍となりました。
  • Q
    現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • A
    私の場合、受け持つ授業のほとんどは留学生を対象とした日本語・日本事情教育です。これまで20年にわたり1000人以上の留学生の相手をしてきました(もっとも、日本人学生と同様、留学生の気質も年々変わっているので「留学生のことがわかる」などとはとうてい言えません)。
    研究テーマの一つは、日本語文法、とくに、テンス・アスペクトとムードです。たとえば「あれ、髪、切った?」という問い掛けに対して「あ、わかる?」と答える人もいれば「あ、わかった?」と答える人もいるでしょう。この「わかる」と「わかった」の違いはどこにあるのか、そんな問題が研究対象です。もう一つは、(日本語)教育の成果をどのようにすれば「正しく」そして「有意義」に評価できるかという課題です。テストをするなら、受験者の能力をきちんと判断できるものを作りたいですし、受験者がテスト結果を次の学習につなげられるようなものにしたいです。
  • Q
    これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ留学生の皆さんに何か。
  • A
    留学生のみなさんに言いたいことは、大学は日本語を勉強するところではないということです。日本語で勉強し、日本語で伝えあうために不足のない日本語を身につけて大学入学を目指してください。もっとも「多少の」不足は私たちの日本語の授業で補えますから、心配のある人はいっしょにがんばりましょう(魔法使いではありませんから「たくさんの不足」を一度に何とかすることはできません)。

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