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「NGOによる国際協力」分野の先駆的な研究者

赤石-和則

赤石 和則 教授

1973年早稲田大学政治経済学部卒業。1983年国際協力推進協会研究員、1991年タイ国立チュラロンコン大学客員研究員、1996年東和大学国際教育研究所教授を経て2003年拓殖大学国際学部教授に就任。

インタビュー

  • Q
    先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • A
    今でも強く印象に残っていることを話しましょう。大学時代は、あまり裕福な学生生活ではなかったことと、当時は大学が学園紛争の影響でロックアウトされることが多かったので、よくアルバイトをしました。たいていのことはやりましたよ。大失敗は、アイスクリームのカップをつくる工場で深夜勤務をしていたとき、ついウトウトしてしまい、ベルトコンベアーの流れについていけずに、自分のところにカップがたくさん集まってしまって、他の人たちに迷惑をかけたことです。大怪我をしたこともあります。新聞印刷工場で、大きな巻取り紙を印刷機械まで運ぶ仕事をしていたとき、床が油だらけだったため、足が滑ってしまい、右手首の肉がえぐられてしまったのです。今で言う派遣だったのですが、私を雇った下請け会社の社長自ら、私を病院まで連れて行ってくれました。まだ精神的なゆとりが感じられた時代でした。一番実入りの良いアルバイトは、いわゆる「配膳会」の仕事でした。結婚式などで料理を運ぶ仕事です。礼服できりりとした緊張感いっぱいの仕事でしたが、良い勉強になりました。家庭教師もよくやりましたが、収入よりも、相手の家で夕食が出たことが大変嬉しかったことを覚えています。
  • Q
    進路はどのようにして決めましたか。
  • A
    友人たちはマスコミ、メーカー、金融機関などの一般企業に結構就職したのですが、私は素直に就職活動する気持ちになれませんでした。どんどん企業の定期募集に乗り遅れ、事情があって体育の単位を落としてしまったことも重なって、結局半年の留年となってしまいました。そのまま大学院進学も考えたのですが、早く経済的に自立しなければならなかったため、結果的に就職が最優先となりました。そんなときに目についたのが、前述の外資系企業のスタッフ募集だったのです。特に国際分野で働きたいという強い気持ちからではありませんでした。本当に偶然です。あえて言えば世界的に著名なTIME誌を発行する会社の一部門への憧れくらいの程度でした。今国際学部では、学生たちの多くが、国際分野の活動に真剣にとりくんでいます。私の学生時代には考えもつかなかったことで、彼らの行動には本当に心から頭が下がる思いです。私はたまたま米国の外資系企業に入社したことがきっかけで、その後の人生が、国際分野に大きく傾斜することになりました。
  • Q
    その後、 「NGOによる国際協力」分野の先駆的研究者と呼ばれるようになった経過について教えてください。
  • A
    さっきの続きになりますが、たまたま入った外資系での活動が、なぜその後の人生を大きく左右することになったのか。大げさにいえば、私の人生観というか、職業観に理由があるように思います。私はいつでも、「自分がいま在籍しているところで一生懸命やること」を心がけてきました。自分はこんなはずではない、もっと良いところがあるはずだと思って不満をもつよりも、今いるところの良さを最大限に活用して、自分の興味関心をいかに伸ばせるか、いかに成長するかを考えてきたのです。外資系企業のときも、前職の小さな大学の研究所のときも、自分にとって少しでも関心領域があれば、その一点にとにかく集中しました。他の誰よりも、その分野には詳しくなろうと心がけたのです。 1980年代初めの頃、私はたまたま、(財)国際協力推進協会経由で外務省などの委託調査を引き受けるチャンスに恵まれたのですが、その主な分野は世界各国の開発協力調査でした。欧米各国のODAやNGO活動を各国別に調査しました。またアジアのNGO活動についてもつぶさに調査する機会に恵まれました。さらにはその関連で、国際機関とNGOの連携、欧米における開発教育の現状、ODA広報のあり方などの調査もやりました。特にNGOの国際協力については、どちらかといえば、当時はまだあまり関心を持たれなかった分野でありました。誰でも関心をもつ分野では、最初からきめ細かく研究を重ねてきた人たちに敵いません。当時はそのことを、ことさら意識したわけではなかったのですが、結果的に、「NGOによる国際協力」分野の先駆的研究者と呼ばれるようになりました。といっても先行研究は日本でこそ少なかっただけで、欧米の研究者たちや国際機関のなかにはしっかりありました。夢中で先行研究文献を読みあさったものです。その結果自分のなかに、NGOに限らず、国際分野全般の専門性が芽生えてきました。そうなると、大学院でもっと極めたいという思いに駆られます。そこで私は、研究所で外務省等の委託調査研究を行う傍ら、ある大学の大学院研究生となりました。毎週金曜日の院ゼミに約6年間通いましたが、その大学の非常勤講師になったところで、研究生生活も終了しました。そして私にとって、国際分野が専門職になる決定的なきっかけとなったのが、タイのチュラロンコン大学への研究留学でした。FASID(国際開発高等研究機構)から研究奨学金をもらうことができ、1年間家族を帯同してのタイ生活を経験しました。このときの研究テーマは「日本やタイのNGOが、東北タイ農村の開発にどのような協力ができるか」というものでした。タイからの帰国後は、研究所勤務と同時に、多くの大学で非常勤講師を引き受けることとなり、学生たちとの接点が始まったのです。そのとき私の年齢はすでに40歳を越えていましたが、気持ちはフレッシュそのものでした。
  • Q
    拓殖大学へ来られたきっかけは何ですか。
  • A
    前職の研究所勤務のとき、拓殖大学に国際開発教育センターを新設するから、その立ち上げに加わってほしいと、渡辺学長(当時国際開発学部長)から声をかけていただいたことがきっかっけです。赴任当初は国際開発研究所専任でしたが、学部での授業やゼミナールももつことになり、国際開発学部(現国際学部)に移籍となりました。しかし国際開発教育センターのスタッフ自体は兼務のまま現在も続いています。
  • Q
    現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • A
    関心のある研究テーマは、東南アジアの農村と都市における社会経済格差問題です。同時にその関連で、農村に生きる人々の生活そのものについても関心があります。この10年ほどは毎年、タイ東北部の農村を訪問して、人々の生活や意識の変化を追いかけています。担当科目やゼミナールの活動にも、こうした関心領域を無理なく取り込めるように工夫しています。特に私のゼミナールでは、毎年夏に2週間ほどタイを訪ね、農村にも泊り込みます。農村自体はわずかの滞在ですが、学生たちにとっては何かを感じ、考えるきっかけになっているようです。また上記とも大いに関係するのですが、国際開発教育センターの活動を通して、日本における開発教育のありかたにも関心をもっています。日本の若者たちが、アジアやアフリカなどに目を向け、また国際協力に関心をもってもらうために、学校や地域社会がとりくむべき学習活動の推進活動や、リーダー育成のためのファシリテー養成活動に取り組んでいます。
  • Q
    これから国際学部に入学を希望している学生に何か伝えることはありますか。
  • A
    私の授業は、現場のリアリティに目を向けることから始まります。ですからアジアの様々な現場の話がよく出てきます。しかし事実をていねいに知る努力ももちろん大事なことですが、そのことを通して、自らの「論」を確立していくことが、大学での重要な勉強だと思うのです。大学の専門授業が高校と大きく異なる点は、実は教員の姿勢にあります。大学の授業では、教員は自説を堂々と展開します。時には十分に検証されていない試行的な論についても、みんなの反応を探る目的で話すことがあります。その際みんなは、その論に無条件に従う必要はないのです。教員は教室という舞台で、自らの研究成果を披露します。みなさんは観客であると同時に、審査員でもあり、批評家でもあるのです。そうした、良い意味での緊張感あふれる授業が行われたとき、みなさんは自らの「論」を形成する契機をつかむことになります。教員が話したことを、そのまま鵜呑みにしてノートにとるというのは、実は大学の授業では単なる第一歩に過ぎないのです。このことが分かったとき、大学の授業はとても楽しい、わくわくしたものになりますよ。
  • Q
    大学卒業後は、いずれ社会に出ることになります。そのため必要な就活(就職活動)についてどのようにお考えですか。
  • A
    概ね希望通りの就職ができている学生の多くは、大学時代に何かに真剣に取り組んでいます。しかも単なる個人行動ではなく、ゼミナールやサークルという集団のなかで活動した学生が大きく成長しています。私は、学生をとことん信頼します。また最も良いところを見出して、その点を一生懸命に伸ばすように励まします。私の期待に応えて、集団活動のリーダーとなって、あっちこっちにぶつかりながらも、懸命に活動している学生たちをみていると、私の方が心にジンと来てしまいます。

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