FACULTY OF INTERNATIONAL STUDIES
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教員紹介

国際学部は教員と共に世界各地のフィールドへ飛び出し、現場から学ぶ機会も豊富です。
教員と学生との距離が近く、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを通じて成長できる環境が整っています。

徳永 達己 教授2

コミュニティ開発を見据えたインフラ整備を

国際学部長 徳永 達己 教授
国際学部長
徳永 達己 教授
略歴:1984年拓殖大学商学部貿易学科(現:国際ビジネス学科)卒業後、青年海外協力隊、(社)国際建設技術協会、エイト日本技術開発(株)、拓殖大学大学院講師を経て、2015年より拓殖大学国際学部へ。この間、東京海洋大学大学院交通システム工学専攻博士課程修了。専門は都市計画、交通計画などのインフラストラクチャー(以降インフラ)開発(社会基盤整備)およびプロジェクトマネジメント。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 海外雄飛の学風に憧れて本学に入学しました。卒業後は、海外に移住して大きな事業を起こすことが夢でした。実家は神奈川県綾瀬市でしたが、学資を得ること、大学の近くに住みたかったこともあり、八王子駅前の新聞配達店に住み込み、朝夕新聞を配達しながら大学へ通いました。植木英雄先生の国際経営ゼミに入り、商社による中国東北部の農業開発プロジェクトを事例として卒論を作成したこと、卒業旅行として南西アジア(インド、バングラディシュ)、タイを一人で歩き回ってフィールドワークをしたことが思い出として残っています。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ国際協力やインフラ開発を志すようになったのですか?
  • 海外で仕事をするための登竜門と考え、卒業後は青年海外協力隊へ参加しました。任地はタンザニア国、職種は在庫管理です。
    当時、日本の有償資金協力を得て大型の道路整備プロジェクトが現地政府(公共事業省)の直営で進められており、プロジェクトに必要な資機材の調達・管理業務支援が主な活動でした。この体験から道路などのインフラ開発や国際プロジェクトの運営に興味を持ち、帰国後は研究員や開発コンサルタンとしてインフラ開発の業務や調査研究を続けることになりました。大学の専攻も運輸交通や物流、プロジェクト経営に関連したものが多かったことから、大学で得た知識を土台に一貫として国際協力、インフラ開発の分野で働いてきました。
  • 就職先や大学院在籍時になにか特筆すべきエピソードや人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • 実際に仕事を始めて途上国の現場と深く関わるようになりました。そこで、さらに専門性を高め、これまでの業績を体系化しようと考え、家族や会社の理解を得て会社に勤務しながら大学院へ進学しました。
    海外出張が年間半年以上にも及ぶ業務形態でしたので、学業との両立が大変でした。これも学部時代に新聞配達をしていた経験があったからこそ乗り越えられたと思っています。若い時の苦労は将来必ずや役に立つということを実感しました。
  • 拓殖大学国際学部に赴任することになった経緯、理由、状況などについてお話いただけますか?
  • 国際開発学部の設立時(2000年)、本学卒業生の立場で、国際開発に興味のある学生に対して途上国や協力隊に関する情報提供を行う場として「海外で活躍する先輩と話をする会」を立ち上げ、定期的に開催しておりました。また、インフラ関連の講義を担当していた吉田恒昭教授の新島ゼミ合宿にもサポーターとして一緒に参加するなど、当時より国際学部および教職員や学生の皆さんは、私にとって非常に思い入れのある存在でした。
    学位(博士(工学))取得後は、2007年より非常勤で拓殖大学大学院国際協力学研究科の講師を兼務することになり、本年(2015年)4月からは国際学部の専任教授として勤務しております。現在は、昨年まで藤本耕士名誉教授がご担当されていた科目(社会インフラ(応用)他)を引き継いでおり、その前任者は吉田先生であったことを思い起こすと国際学部との深い縁を感じます。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • 私の研究テーマは主として次の4つの分野となります。

    ①インフラストラクチャー開発(主に運輸交通分野等の計画、施工、管理、評価)
    ②都市・地域開発計画(物流計画、コミュニティ開発、復興支援、まちづくり)
    ③開発協力(PFI、BOPビジネス、参加型プロジェクト、社会起業家)
    ④プロジェクトマネジメント(システム工学、問題解決技法、フィールドワーク)

    最近のテーマとしては、「地域開発・まちづくり計画の視点から見たインフラ整備のあり方」、「コミュニティ参加によるインフラ整備に用いる適正技術の開発や組織・制度づくりと人材育成方法に関する考察」など、両領域にまたがる研究が主となっています。近年の厳しい財源制約のもと、コミュニティを通じて維持管理や社会サービスを民営化しようとする動きは日本でも注目されており、新たなインフラ整備システムとして、コミュニティ開発の新たな手段として重要となっています。
  • 国際学部における学びについてどう考えますか?
  • グローバルな視点からある事象について考察することを「国際学」と定義すれば、私達がこのグローバル化を正しく理解するためには、国際学をより体系的、かつ専門的に学ぶ必要があります。
    また、国際学は刻々と変化する現地の実情に合わせて考えるべきものであり、常に現場を意識して学ぶ必要のある学問です。そこで、私はこれまでの途上国における現場経験を活かし、教室だけの空間に留まらず、現地の人と向かい合い、お互いが課題解決に向けて共に学び、共に行動できるような教育環境を構築していきたいと考えています。校歌にも謳われているように、本学の学生にとって海外で活躍することは選択肢の一つのではなく使命です。本学は海外に関心ある学生に対しては手厚く支援してくれる良き伝統があります。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • 国際機関、援助実施機関、研究機関、開発コンサルタント、青年海外協力隊など国際的な舞台において活躍を希望する志の高い学生を歓迎します。
    特に国際協力の仕事は、高度な専門性と能力それを習得するための集中力・忍耐力が必要とされます。大学院進学、留学希望者も歓迎します。
  • 以上の質問の他に、なにか話したいことがあれば自由にお願いします。
  • 大学の四年間は短い期間ではありますが、自らの「人間力」を形成するため人生で最も重要な時期です。将来悔いを残さぬよう、徹底的に研究に打ち込んで自分自身を鍛え、この学部からグローバルな舞台に雄飛するための足掛かりとしてください。
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藍澤 淑雄 教授

サブサハラアフリカの地域コミュニティに関心

藍澤 淑雄 教授

藍澤 淑雄 教授
東京大学大学院修了、博士(国際協力学)。1990年青年海外協力隊、1997年国際開発センター、2013年秋田大学国際資源学部・研究科を経て、2019年から拓殖大学国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 大学時代は「どう生きていくべきか」についての答え探しの日々を送っていました。人生で一番悩んだ時期かもしれません。興味のある講義に耳を傾けても、親しい仲間たちといっしょにいても、本を読み漁っても、アルバイトに明け暮れても、現代美術家のアシスタントをしても、答えは見つかりませんでした。そんなときぼんやりと魅力を感じていたのが青年海外協力隊でした。当時はまだ大学を卒業していませんでしたが二度目の受験でようやく合格し、協力隊員としてパプアニューギニアという国に赴任することになりました。パプアニューギニアでは小さな町の小さな職業訓練校で、青少年を対象に3年間職業技術を教えました。はじめての海外暮らしでしたので、見るもの、聞くもの、触るもの、匂うものすべてが新鮮でした。活動する地域の人びとに外国人としてみられている感覚も新鮮でした。そのような現場の経験を通じて人生ではじめて自分の進むべき方向が見えてきたように感じました。
  • その後、大学に戻ってきたのですね?
  • 大学を中退して協力隊に参加しましたので、元の大学には戻りませんでした。苦労してやっと入った大学を中退したのですから、今思うとずいぶん思い切ったことをしたと思います。ただ協力隊参加は、その後の人生を方向づける大きな転機になりました。パプアニューギニアの現場では自分の能力不足を痛感し、それが国際開発の専門性をさらに磨きたいという欲求へと変わっていきました。協力隊の任期が終わりに近づくにつれてその気持ちがさらに高まっていきました。当時日本には国際開発を専門的に学べる大学や大学院がほとんどありませんでしたので、思い切って米国の大学と大学院に留学することにしました。留学は想像以上に刺激的でした。学生の3、4割が留学生という国際的な環境の中で、国際開発の第一線で活躍する先生方から直接ご指導いただいたことは、今でも他に代え難い貴重な経験だったと思っています。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 米国での大学院を修了した後は、政府機関の委託調査研究やプロジェクトを実施する国際開発センターという組織で長い間お世話になりました。1年間に半年くらいは海外の現場にいる仕事でした。主にアジアとアフリカを対象として仕事をしていましたが、とりわけサブサハラアフリカにあるタンザニアの地域コミュニティで調査、研究、プロジェクトを実施する多くの機会にめぐまれました。タンザニア人の同僚や地域の人びととのかかわりあいを通じて、タンザニアの地域コミュニティについて理解を深めました。
    その後、前職の秋田大学で教鞭をとり始めました。それまでの研究をさらに深めたいと感じたからです。秋田大学では国際開発全般について教えながら、サブサハラアフリカの地域コミュニティにおける社会と人びとの関係性に焦点を当てて研究活動を行いました。現在でもその研究活動は進行中です。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • 「コミュニティ開発」、「制度開発」、「開発とNGO」、「国際社会とボランティア」などを担当しています。私の担当科目には二つの大きなメッセージが含まれています。ひとつ目は、地域コミュニティの支援に当たって重要なのは、まずは地域社会の人びとの関係性をできるだけ正確に把握すること、そのうえで持続的に機能する支援の仕組みが必要だということです。ふたつ目は、私たち地球市民一人ひとりの力は小さくても、それが集まれば社会を変革できるということです。既往の学説と現場の経験を結びつけながら授業を展開していきます。グループワークが多いのも私の授業の特徴かもしれません。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 学生の時にぜひ母国とは違った環境に身を置いてみてください。慣れ親しんだ母国との違いが大きいほどに好奇心がくすぐられると思います。そしてその時の新鮮な感覚を大切にしてください。学生の時に吸収したことは記憶に深く刻まれて、歳を重ねてもいつでも鮮明に思い出すことができます。その記憶はそれからの人生を豊かにすることでしょう。国際学部には海外へ行くためのいろいろな機会が転がっています。ぜひ見落とさないように!
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新井 典子 教授

「思いが伝わる英語力」の習得を念頭に

新井 典子 教授

新井 典子 教授
マンチェスター大学大学院博士(社会科学)課程修了(2002年8月)。
2002年に国際学部の非常勤講師に。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • いたってのんびりしていましたが、英米文学専攻ということで、英語に関する授業ばかり、ずいぶんと多くの英文を読まされた記憶があります。電子辞書などもない時代でしたので、常に重たい辞書を携行しなければならなかったこと、バッグが膨れてしまい苦痛でしたね。教授の先生方は皆雲の上を歩いているような方ばかり、気軽に話しかけることなど絶対にできませんでした。予習していなければ授業に来るなといった雰囲気でしたので、必死で青くなりながら予習を間に合わせる日々でした。当時使っていた辞書は手垢で汚れきり、ぼろぼろでAやZのセクションはページが抜けていて悲惨な状態ですが、私の原点がそこにあるようで今でも捨てずに持っています。
  • なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか?
  • 実は大卒後、美術出版系の仕事に就いていたのですが、どういうわけか自分で物を書きたいなどと生意気な妄想を抱き、大学院へ進学しました。当時、上の世代から「新人類」と批判された世代ですので、仕事をあっさり辞めるにあたっては、かなり周囲から冷たい目で見られたことを記憶しています。「なんて今の若者は我慢が足りないんだ!」といった具合です。実はこれは今私自身が若い世代に対して使っている言葉なのですが...ともあれ、若いときの無鉄砲というのは、はた迷惑かもしれませんが、当人にとっては人生を大きく成長させるエネルギーの爆発でもあるのかと、今では懐かしく思い出しています。
  • なにか特筆すべきエピソードや人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • イギリスに留学に行けたことが人生の転機でしょうか。イギリスでは、学位を目指して研究に携わっていましたが、それは振り返ってみると、自分というジグソウパズルを崩して、もう一度はめ直す日々であったようにも思われます。これはまた、もうひとりの私を英語を通して生み育てる機会でもありました。英語の世界を得ることで、自己が豊かに成長できたことを今では深く感謝しています。その意味で、確かに留学は人に大きな人生の転機/実りをもたらすと確信しています。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由は?
  • 2002年夏、イギリスで論文執筆を終え、そろそろ次の段階を考えていた頃、偶然知人を通してこちらの英語教員の話を耳にし、問い合わせたのがはじまりでした。実際教壇に立ってみると、学生たちは明るく素直で、英語を通して世界へ羽ばたきたいという気持ちが強く、未熟ではあるけれども私の経験を生かして彼らの思いに応えられないかと思い、現職に就かせていただきました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • 海外に出て、困っている人を見たら、即座に“I will help you.”という言葉が出るでしょうか。まずは相手が見知らぬ人の場合は物怖じしてしまうかもしれない。また相手に迷惑がられるのではないかと遠慮してしまうかもしれない。あるいは、言いたいのに肝心の英語が出てこないといった場合もあるでしょう。私の英語のクラスでは、「思いが伝わる英語力」の習得を念頭に置き、英語を新鮮な気持ちで学び直すことを行っています。基礎固めはもちろんのこと、英語そのものだけでなく、文化の問題にも触れ、「沈黙は金」を美徳とする日本人が海外で理解を得るにはどうしたらいいか等、共に考察しながら楽しく授業を進めています。また、私の専門分野は、女性学(Women's Studies)といい、その領域は社会学やカルチュラル・スタディーズ、また人文学にもまたがっています。国際学部では、「ジェンダーと開発」という授業を、英語の他に担当していますが、ジェンダー概念の学習を通して、国際協力や国際文化に対するより深い理解が得られることを目指して授業を行っています。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • 可能性は無限大、何でも果敢に挑戦して欲しい。スポンジのように吸収力抜群の若いときは、特に語学を習得するには最高の時期であることを忘れずに、一生懸命苦労して欲しい。何事も楽をしないよう、気をつけてください。それから、旅と読書で自己を豊かに耕すこともお忘れなく。
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新田目 夏実 教授

発展途上国の都市化と都市問題に関心

新田目 夏実 教授

新田目 夏実 教授
筑波大学大学院地域研究科東南アジアコース終了。民間の都市地域計画のコンサルティング企業で働いた後、米国のシカゴ大学でPh.D(社会学博士)取得、ルイジアナ州立大学でさらに教育研究に従事。通算10年間米国で学ぶ。1998年から四国学院大学社会学部。2002年から国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • とても忙しい大学生活でした。1年生のときはほとんど英語しか勉強していなかったような気がします。私のいた大学(ICU)は3学期制の大学(春、秋、冬学期)で、春は4月から7月、秋は9月から11月、冬は12月から二月末まで授業があります。そのため、1年中、授業に出席し、レポートを書き、プレゼンテーションを行い、試験を受けていたような気がします。専門としては、社会学・人類学を勉強しました。大学3年のときに、フィリピンアテネオ・デ・マニラ大学に1年間交換留学しました。寮に住みフィリピン人の友達がたくさんできました。日本では想像もつかないような、貧困や都市問題を目の当たりにしたのもこのときです。留学中は、フィリピン語に加え、社会学・人類学を勉強しました。大学時代はバレーボール部だったので、バレーボールクラブに入り、日本のバレーボール協会から取り寄せた英文指導書を手に、フィリピン人のコーチと一緒に、地方まで、バレーボールを教えに行ったこともあります。
  • なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか?
  • ICU卒業後、東南アジアについてさらに勉強したく、筑波大学大学院地域研究科東南アジアコース修士課程に進学しました。そこで出会い指導を受けたのが、拓殖大学の学長である渡辺利夫先生(当時筑波大学)です。筑波大学の修士課程終了後、民間のコンサルティング企業に就職しました。研究者として仕事をするためには博士課程程度の学歴が必要ですが、筑波大学の大学院には修士課程しかありませんでした。そのため、他の大学に進学するか、就職するか本当に悩んでいました。そのときに、渡辺先生が「新田目君、勉強だけが人生じゃないよ」とおっしゃったのです。迷いながらもこ、民間企業に就職したのはそのためです。就職先としては、私の関心に関係のある途上国の都市地域開発をおこなうコンサルティング企業に就職しました。在職中は、主に中近東のイラクのバグダッド首都圏総合開発計画に参加し、社会開発計画の策定に参加しました。その間二年半はバクダッド市に住んでいました。イランーイラク戦争が段々と激しくなってきた時期で、なんべんか危険な目にもあいました。戦争さえなければ、4大文明の発祥地であり、古都であり、文化遺産の豊富でかつ活気のあるすてきな街です。平和の大切さを痛感しました。
    バクダッドでたくさん面白い仕事をしました。都市計画を策定するためには、住民の実態調査を行う必要があり、また将来の都市人口を予測する必要があります。会社には人口分析の専門家がいなかったため、国連人口部の専門家を短期間招聘しました。私は彼の助手を務めました。社会学に加え人口学に関する関心と知識を持つようになったのはこのときからです。また、実際の業務を通じて自分の専門知識が足りないこと、また、今後のキャリアアップのためには、博士号が必要であることがわかってきました。国連の専門家などとつき合っていて、国際社会は日本よりも学歴社会であること、学歴の差が給与に直結することがわかってきたのです。そこで退職してもう一度勉強をしなおすことにし、社会学研究のメッカであるアメリカのシカゴ大学大学院博士課程に進学しました。シカゴ大学では社会学(都市社会学、人口学専攻)で博士号を取得しました。コンピュータ分析も徹底的に勉強しました。 シカゴ大学卒業後、さらにルイジアナ州立大学社会学部で三年間研究・教育に励みました。ルイジアナ時代を含め、アメリカには丸10年滞在していたことになります。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか。
  • 日本に帰国して最初の職場が四国学院大学でした。帰国と前後して、実は渡辺利夫先生から拓殖大学に国際開発学部ができるという話を聞き、関心を持っていました。渡辺先生からお誘いがあったことと、四国学院大学に4年間勤め、「頃合も良い」ので、その後正式に移籍することとなりました。転職には「タイミング」というものがあります。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • 3つの問題に同時並行で取り組んでいます。まず第1に、発展途上国の都市化と都市問題です。発展途上国にはたくさんの貧しい人たちが住んでいます。発展途上国では、過去、子沢山の結果、人口が急速に増えましたが、その人たちの生活を支える仕事は増えませんでした。その結果たくさんの貧しい人々が生じ、多くの人々は職を求めて都市に集中しました。その結果生じたのが都市の貧困問題です。私の研究の1つは、このような途上国の都市問題の実体の把握と解決方法に関するものです。第2が少子高齢化問題です。少子高齢化は日本などの先進国の問題と思われるかもしれませんが、実は、中国、韓国、台湾などの東アジアでも急速に進んでいます。シンガポール、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンなどの東南アジアでも徐々に問題になりつつあります。私の関心は、お年寄りの世話を誰がどのようにするかという問題です。日本では、2000年以降介護保険制度が始まり、市町村などの自治体レベルで高齢者福祉対策が始まりました。途上国ではどのような対策が可能でしょうか。フィリピン、タイ、インドネシアなどで調査を続けています。また、シンポジウムなどを通じて中国の研究者との意見交換もしています。
    最後に、日本に住む外国人が増えてきました。1980年代初頭、日本に住む外国人といえば、韓国人・朝鮮人を意味していましたが、現在では、中国人を筆頭に、韓国人・朝鮮人、ブラジル人、フィリピン人など、いろいろな国の人が住む時代になっています。文化が違う国の人が共に住むというのは大変なことです。外国人と日本人が仲良く生活できるような仕組みづくりが求められています。外国人と日本人が「共生」するまちづくりのための調査も行ないたいと考えています。
  • 国際学部では何を教えていますか。
  • 国際社会学、人口学、都市開発を主に教えています。しかし、拓殖大学では、過去に情報処理やデータ分析のクラスを教えたこともあります。コンピュータを使った社会調査の分析は、現在ゼミで教えています。さらに、他大学では、移民問題についても講じています。社会学、人口学に関するテーマ一般に加え、東南アジアやアメリカに関する質問にも答えることができます。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか。
  • 明るく楽しく、悩みすぎずに、とりあえず一歩前に踏み出してみましょう。道は必ず開けます。そのようにして得た経験を、社会学理論の体系と関連づける努力をしてみてください。このようにして4年間を送ってください。入学したときは全く違う理解力と実行力をもった自分を発見することになると思います。
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石川 一喜 准教授

チームの力を引き出す
「ファシリテーター」養成の第一人者

石川 一喜 准教授

石川 一喜 准教授
1998年東京学芸大学大学院教育学研究科修士課程修了。2000年に東和大学国際教育研究所研究員となり、2004年から拓殖大学国際開発研究所に赴任。
  • 先生は東京学芸大学のご卒業ですね。なぜ教員を目指したのですか?
  • とりたてて教員になりたかったわけでもないのに、東京学芸大学という教員養成の大学に入学してしまいました。要は田舎者だったわけです。実際に東北・岩手県出身というだけでなく、考え方がまさに田舎者でした。「東京に出れば何かが変わる!何でもできる!」との一心でとにかく上京することが第一義になっていたのです。
    そのため、(当然の帰結ですが)授業にはのめり込むことができず、斜に構えていたところがあったと記憶しています。それでも、教員志望の連中には気さくな人間が多く、クラスやサークルの仲間を中心に全国から集まった多くの面々(彼らもまた田舎者でしたが(笑))と友人になれたことが、今は財産となり、自分の人生においてかけがえのないものになっています。
    ちなみに、3年次にやっと自分の興味のある国際政治のゼミに入ることができ、そこからは惰性で受けていた姿勢から、自発的に学ぼうとする姿勢へと変わっていき、世の中の見えるものも変化していったように思います。
  • なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか?
  • 学部の時に中野の進学塾で講師のアルバイトをしていたのですが、その中に大学院生の方が多く、彼らの生き方に触れるたびに、漠としてですが大学院への憧れが生まれていったように思います。明確に「研究者」になろうとしてわけでは決してなく、とにかく目の前のことを一生懸命に取り組んでいたら今に至ったという感じです。「目指して○○になる!」といういき方もあるのでしょうが、今、眼前にある夢中になれるものに真剣にさえ取り組めば、きちんと辿り着くべきところに辿り着かせてくれるという必然があるのではないでしょうか。
  • 人生において「出会い」はどんな意味を持ってきましたか?
  • 前職の仕事で「地球市民アカデミア」という通年の国際協力・国際教育リーダー養成講座の企画運営に5年間関わりました。各期20~30名ほどの方々が受講されるのですが、年齢もバラバラであれば、バックグラウンドもとても多様で、とても魅力的な方々と毎年出会うことができました。ただそこにいるだけで、場の持つ力が自分を成長させてくれたと確信しています。
    人生において「出会い」は非常に重要な意味を持ちます。それは人だけに限らず、どんな経験やどんな場所、場面に遭遇するかということも含めてです。いろいろな出会いを得るためにも、がむしゃらなくらいにあちこち一歩踏み出してみるといいと思いますよ、若い時は特に。
  • 拓殖大学へはどのようなキッカケで移ってこられましたか?
  • 前職の東和大学国際教育研究所では、国際学部の赤石教授と一緒に働いておりました。ただし、2004年にその研究所が閉鎖されるに伴い、赤石教授が拓殖大学へ移り、その際に「国際開発教育センター」が設立されることになります。そのセンターの果たす役割が、自分の専門と重なったため、声をかけてもらったのが経緯です。
  • 現在、最も関心を持たれている研究テーマは何ですか?
  • ESD(持続可能な開発のための教育)という言葉を聞いたことがあるでしょうか。その教育を積極的に推進していく「国連持続可能な開発のための教育の10年」は、2002年に南アフリカで開催されたヨハネスブルグサミットで日本の市民と政府が共同提案し、のちの国連総会で採択され、2005年からスタートしています。今の地球社会のままでは環境面などで負荷がかかりすぎ、"持続不可能"な状況となっています。それを打開するために教育の力を借りながら、私たちが望むよりよい社会を構築していこうという活動が私の今の最も関心のあるところです。
  • 先生は「ファシリテーター」養成の第一人者ですね。
  • 「ファシリテーター」というのは新しいリーダー像とも言われ、チームの力を最大限に引き出す役割を担います。私が専門とする教育分野で言えば、学習を促進し、参加しやすい場づくりをし、学習意欲や興味・関心を引き出す役割を担っていきます。そうした人材を育成するために「国際開発教育ファシリテーター養成コース」の企画運営に携わって5年になりました。やはり、ここでも毎年魅力的な人たちと出会え、本当に恵まれています。
  • 大学ではどのような姿勢で学んでいけばよいのですか?
  • どんなことでも中途半端に取り組んだのでは、本質は見えてきません。大学時代にしかできないことをめいっぱい真剣に取り組んでみてください。自分の周り(社会など)が違って見えてくるでしょうし、周りが自分を見る目も変わってきます。そして何より自分が変化していくはずです。
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王 曙光 教授

日中経済関係、特に中国の発展が
われわれの生活に及ぼす影響について

王 曙光 教授

王 曙光 教授
中国の大学を卒業後、1982年中国山東師範大学講師。その後、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を修了し、1994年から静岡産業大学経営学部助教授。2001年から国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 中国の「文革」を知っていますか。実はわたしも「文革世帯」の一人です。その時一番辛かったのは、高校卒業の頃、大学入試が完全に中止されたことでした。やむを得ず故郷山東省の国有工場で働くようになりました。しかし一方では、その時代で一番「得」をしたのも、実は工場勤務の間に企業経営の実務経験を積んだことでした。高校を出てから大学進学が実現できるまでの八年間(1970~78年)は、わたしの人生経験を豊かにしてくれた貴重な時期でした。 中国の大学では、日本語を専攻しました。文革後初の大学入試(独学で覚えた日本語で外国語試験科目をクリアした)を経て大学への夢を果たしたため、身を削るほど懸命に勉強していました。またその時、前に勤めていた国有企業の役職を兼務し、大学生でありながら企業から給料を支給され、同級生たちから「貴族学生」とも揶揄されていました。まあ、しょっちゅうご馳走させられていましたね(笑)。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか。
  • 大学卒業後、中国で大学の教員になっていましたが、地方の無名大学卒で無名大学の教員で一生涯を終えるのをあきらめきれず、日本の高水準大学院でのレベルアップを決意しました。来日後、いわゆる「ゼロからのスタート」でずいぶん苦労しましたが、ようやく自分の目指す方向に向けて進めるようになりました。
  • 学生時代のエピソードや人生の転機となるような出来事はありましたか。
  • 「報われる」、大学生時代に覚えたこの日本語は、わたしの信念となり、これまでの実感でもありました。苦境をバネにして頑張ればいつか報われる、とそのときから思うようになりました。国の政治事情で大学への夢が断たれた時でもあきらめず、独学で力を付けてきた結果、消えかかった夢を現実に変えることができたのが、わたしの人生における最大の転機でした。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • 地方の大学に勤務していた頃、拓殖大学に国際開発学部が設立される話を聞き、強い関心を持ちました。かつてわたしの著書を出版審査なさったご縁もあり、光栄にも学部創設者である渡邉利夫学長からの就任要請を受け、国際開発学部の教授になりました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマを教えてください。
  • 中国産業を研究し、定期的に日中両国の企業や市場を回って調査しているため、日中経済交流の緊密化によって両国の消費者にもたらされるメリットが多いと感じています。なぜ、安い中国製品が世界中に出回っているのか、なぜ、日本企業の技術が中国で大いに歓迎されているのか。ゼミでも学生諸君にさまざまな実例を紹介し、ともに今後の日中経済関係、さらに、その発展がわれわれの生活に及ぼす影響などについて語り合っています。
  • 国際学部で力を入れられていることは何ですか。
  • 国際学部の外国人留学生教育を担当しています。わたしのゼミでも、日本人学生と留学生が協力して海外合宿などの国際交流イベントを毎年実施しています。さらに、中国語履修者を中心に中国への短期研修も毎年企画し、引率しています。昨年度春季研修では、上海で学生諸君とともに三週間を過ごしてきました。
  • これから国際学部に入学を希望している学生に何か一言、お願いします。
  • いろいろな国から来日した外国人留学生と肩を並べて勉強できるのが国際学部です。さらに、11カ国語の地域言語科目が開設されており、毎年6カ国への短期研修も実施されています。国際学部は、さまざまなルートで広い国際世界につながっているような感じです。あなたも、国際学部の在学生諸君とともに異文化交流の醍醐味を体験してみませんか。
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岡田 実 教授

中国と、アジアと、世界とつながる

岡田 実 教授

岡田 実 教授
東北大学法学部卒業後、民間企業勤務を経て、1988年にJICAに。JICAでは北京大学留学、中国事務所員、中国援助調整専門家、中国事務所副所長として約10年間対中ODAに従事した他、本部、外務省、研究所等で勤務。2012-13年度法政大学法学部兼任講師を経て2014年より拓殖大学へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 漠然と何か楽器をマスターしたいと考えていたところに、ひょんなことからマンドリンという楽器と出会い、1年から3年まで音符と格闘する毎日でした。3年秋の定期演奏会が終わって部活を引退してから、深夜までアルバイトをしてお金をため、バックパッカーとしてアメリカとメキシコを回ったのが最初の海外体験です。アメリカからメキシコ国境のリオグランデ河を渡るとそこは全くの別世界で、先進国と開発途上国の格差に愕然としました。

    「ボランティア」との出会いも大学時代です。1981年の国際障がい者年をきっかけに永六輔さん、さとう宗幸さんらが発起人となった、障がい者と共にコンサートを作っていく市民団体に、これもひょんなきっかけから参加して、事務局の仕事を手伝っていました。そこには、福祉施設の園長先生、地元テレビ局のアナウンサー、大学の手話サークル、大工さん、会社員、主婦、障がいを持つ方、持たない方・・さまざまな方々が参加されており、ものすごい社会勉強になりました。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ国際協力や中国研究を志すようになったのですか?
  • そうした学生生活だったので学問とは縁遠かったのですが、大学最後の年に中国政治のゼミに入り、尊敬する恩師と、その後一生のおつきあいになる「中国」に出会いました。当時若手の助教授だった恩師が海外留学から帰国したばかりということもあってか、ゼミ生はたった3人の「寺子屋」状態(笑)。毎週の膨大な宿題と夜遅くまで続く議論を今でも憶えていますが、今から思えばとても楽しい濃密な時間でした。

    大学卒業の際は、法学部の学生は就職するのが当たり前でしたので、普通のシューカツをして民間企業に入りました。当時、開発途上国の現場でプラント建設に携わることをイメージしていました。ゼミで学んでいた中国が改革開放政策に転じ、上海宝山製鉄所など大規模なプラント建設が始まっていた時代です。実際、総合重工メーカーに就職して、夢の実現に向けて歩み出しました。

    ただ、中に入ってみると、自分の夢と現実にギャップが出てくる。いろいろ思い悩むうちに、新聞広告でJICA職員の求人を見つけました。自分は「奥手」で、恥ずかしながら大学時代はJICAの名前すらよく知らなかったのですが、民間企業で、社員をJICA専門家として送り出す仕事をしてから関心を持っていました。JICAに転職後、運よく海外研修で1年間の北京大学留学、その後の駐在員などで都合10年間の中国滞在経験を持つことができました。その過程で、日本国内のODA批判、特に対中ODA批判が声高に叫ばれ、中国のことやODAのことを根本から考えたいという気持ちになり、2度目の海外勤務から帰国後、社会人向けの夜間大学院の門を敲いたのが中国研究のスタートでした。
  • 就職先や大学院在籍時になにか特筆すべきエピソードや人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • 最初の海外勤務から帰国してから配属された部署の課長が課内会議のときに、「一つの部署で経験し考えたことを、一本の論文にまとめなさい」とアドバイスされていたのが頭の隅に残っていました。その数ヵ月後にその通りに一本の論文をまとめて提出しましたら、その課長はすぐJICAの専門誌を編集している部署と話を進めてくれ、掲載されたのです。自分の書いたものが活字なるという、初めての経験でした。

    大学院でも尊敬する恩師との運命的な出会いがありました。そのうちのお一人は援助機関出身で、「並みのサラリーマンも年に1本論文を書けば大学教授になれる!(かも)」と講義でおっしゃっていたのが印象的でした。結果的に、年に論文1本は無理でしたが、JICA在職中にがんばって単著を3冊出しましたら大学教授になれました(笑)。そして最もお世話になった指導教授の恩師もJETROから中国研究者に転身された方でした。「生き方モデル」が目の前にお二人もいらっしゃったのは運命としか言えません。
  • 拓殖大学国際学部に赴任することになった経緯、理由、状況などについてお話いただけますか?
  • 3度目の海外勤務から帰国後、大学院の恩師から話をいただき、JICAの仕事の傍ら法政大学法学部で兼任講師をしていたのですが、インターネットで拓殖大学の教員公募を知り、チャレンジしました。自分にとっては、民間企業、JICAに続く3度目のシューカツでした。
    拓殖大学の建学の精神である「あらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」と、校歌にも謳われる「人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」は、JICAのマインドと同じです。また、渡辺総長は、以前JICAの「中国国別援助研究会」の座長を務められていて、当時の自分にとっては雲の上の存在でした。そうしたご縁もあり、採用が内定したときは本当にうれしかったです。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマを教えてください。
  • もともと、日中関係と対中ODAをテーマに研究を始め、中国の対外援助をめぐる政治外交史の研究もしてきました。引き続き、日本の対外援助史、とりわけ対中援助史を掘り起こし、きちんとまとめることを続けていきたいと思います。それに加えて、日本と台湾との歴史的関係、その中でのODAの役割についても関心を持っています。東アジアの国際協力史として幅を広げていければと考えています。
    他方、現実の日中関係、日台関係を今後どう発展させていくかにも関心があります。グローバル化が進む中、中央政府に加え、企業、NGO、地方政府などアクターが多様化しています。また次世代を担う青年の果たす役割も重要です。大学の立場から少しでも貢献できればと考えています。
  • 上記の現在のご関心・ご担当に加えて、過去のものもふくめ専門、研究内容、担当教科について特記するものがあればお答えください。
  • 2015年度から、国際学部に社会貢献・ボランティア推進委員会が正式に立ち上がり、委員長に任命されました。私の経験からも、大学時代にボランティア活動などを通じて社会に積極的に飛び込んでいくことにより、多くのことを学び、己を磨くことができます。岡田ゼミにおいても、積極的に教室の外に打って出ること、マイ・プロジェクトを持つことを奨励しています。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • 日中関係が安定することは、日本にとっても中国にとっても利益です。いまや中国抜きの日本の発展はありえないと言っても過言ではありません。
    他方、ともするとある種の「歪み」を伴ったおびただしい中国報道に翻弄されがちな学生が少なくありません。私の授業は「さまざまな意見や解釈を学ぶことにより、中国報道を冷静に理解し、過度に単純なステレオタイプの考えに陥らない複眼的な思考力を高める」こと、ゼミは「日中、日本とアジアの架け橋となる人材を育てるための実践的な活動を行う」ことを目標に掲げています。

    中国と、アジアと、世界とつながることで人生が豊かになります。興味ある学生は、いつでも研究室を訪ねてください。歓迎します。
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尾沼 玄也 准教授

留学生と日本人が互いに学びあえる、恵まれた環境を最大限に活用しよう!

尾沼 玄也 准教授

尾沼 玄也 准教授
南山大学院博士前期課程修了、修士(言語科学)。2006年日本マレーシア高等教育大学連合JADプログラム講師、2010年国際交流基金海外派遣日本語専門家、2012年神田外語大学専任講師、2017年Atma Jaya Catholic University of Indonesia講師などを経て、2020年に拓殖大学国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 高校生の時から、将来は日本語を教えることを職業としたいと思っていたので、大学では日本語学や日本語教育学などを学びました。大学の授業も、同級生も大好きで、毎日朝から暗くなるまで大学で授業をとり、夜は友だちの家に集まって楽しく過ごしているうちに、最初の2年間はあっという間に過ぎてしまいました。3年生になる前に、「自分は本当に日本語教師に向いているのだろうか、この2年間の勉強で、日本語を教える力は身についたのだろうか」と思うようになり、指導教官の紹介で、オーストラリアの田舎にあるセカンダリー・スクール(日本の中学校と高校が一緒になったような教育機関です)で日本語のティーチング・アシスタントとして一年ほど働かせてもらいました。日本語担当のオーストラリア人の先生は、大学を出たばかりの人で、二人で毎日四苦八苦しながら授業の準備や、生徒の指導に取り組みました。うまく行かないことも多く、悔しい思いもたくさんしましたが、同時に、オーストラリアの豊かな自然に感動したり、異文化の中で暮らすことの楽しさも経験することができ、「もっと勉強して一人前の日本語教師になろう」と決意を新たにすることができました。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 大学院在籍中に、幸いにもマレーシアの教育プロジェクトに日本語教師として採用していただけたのが最初の仕事です。日本の短大のような機関でしたが、日本語教育については、拓大から専門家の先生方が派遣されて、指揮をとってくださっていました。この現場で非常に多くのことを学び、日本語教師としての基礎を身につけることができたと思います。それから、国際交流基金の派遣で再びマレーシアの大学で教えた後、日本の大学の留学生別科に移りました。留学生別科では25以上の国や地域から日本に留学して来た学生を教えました。拓殖大学に入る直前は、日本の大学から派遣されて、インドネシアの大学で日本語を教えていました。ここでは、大学生だけではなく、インドネシアの日系企業で日本語を使って仕事をする人たちのトレーニングも担当し、多言語職場でのコミュニケーションの実際や課題について、多くのことを学ぶことができました。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • 主に、「日本語オーラルコミュニケーション」、「日本語リーディング・ライティング」などの留学生向けの日本語科目を担当しています。留学生の皆さんの勉強や生活のサポートをしたいと思いますので、私の授業をとっている人以外にも気軽に声をかけてください。また、日本人学生も履修できるゼミナールでは、日本語によるコミュニケーションを取り扱う理論や方法論から様々な社会活動を考えることをテーマにしています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 拓大は留学生と日本人が互いに学びあえる環境が魅力の一つだと思います。恵まれた環境を最大限に活用し、見える世界を広げて大学生活を充実したものにしてください。また、言葉は人間活動の基盤になるものです。日本語の力を磨き、自分の考えを十分に発信できる魅力的な人、他者の思いを十分に汲み取れる心の豊かな人に成長することを目指しましょう。
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甲斐 信好 教授

優れた政治家と同時に優れた国民(有権者)も育てたい

甲斐 信好 教授

甲斐 信好 教授
大学卒業後、松下政経塾に(第3期生。1982~1987年)。その後、自由社会フォーラム研究員、松下政経塾・研修主担当などを歴任。2001年に東京工業大学大学院社会理工学研究科後期課程を修了。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • うーうーうーうっ(と七転八倒)。実は、ゼミ以外はほとんど大学の授業に参加しないサボり学生でした(笑)。ただ、ゼミ(細谷千博先生:国際関係論)にだけは熱心に参加しました。ゼミの幹事をつとめる他、慶応大学や明治大学など東京の十の大学で、国際関係・国際政治を勉強するフォーラムに参画しました。このフォーラムは現在も「十大学セミナー」として継続されており、他大学の仲間とも交流が続いていて、私の貴重な宝物です。
  • そのような学生生活を送っていて、どうして松下政経塾に入ることになったのですか?
  • 実は、大学院に行こうか、鉄道会社に就職しようか迷っていました。ある私鉄会社からは内定をもらっていたのですが、当時の国鉄(現在のJR)は改革の末期で文系大卒の採用はほとんどありませんでした。中途半端な気持ちだった大学4年のある日、就職課の前に「松下政経塾」のパンフレットがおいてありました。政経塾はまだ出来たばかりで、文字通り「海のものとも山のものともわからない」状態でした(実際、「10年持たないよ」と言うマスコミ関係者もいました)。でも、「未知数」の魅力と、松下幸之助さんという人への信頼から、応募を決心しました。もしあの出会いがなかったら、拓大へのご縁もなく、今は関西で私鉄の駅員さんをやりながら、それはそれで幸せな生活をしていたでしょう(笑)。人生、ほんとうにどこでどうなるかわかりません。面白いですね。
  • 松下政経塾での特筆すべきエピソードが何かあれば教えてください。
  • 松下政経塾で、また国会議員の政策スタッフとして、政治の世界でさまざまなものを見てきました。痛感したのは、「ルールは、ルールを作る人間に都合よく作られる」という冷徹な事実です。世の中の仕組みがどうなっているか、ニュースで報道されているものの裏に何があるのか、それを知らないと一生利用されるだけになってしまいます。政治を勉強することは、何よりもまず自分が「生き残る」ために必要なことだと思っています。当たり前の話ですが、政治は人間がやるものです。矛盾した人間がやるのだから政治も矛盾だらけです。人間の一番美しい部分も、目をそむけたくなる醜い部分も出てきます。その矛盾に耐えられること。政治学は人間学です。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • 社会人学生として大学院(東京工業大学社会理工学研究科)で博士論文を見ていただいた渡辺利夫先生が、「拓大に面白い学部を創るのだけれど、一緒に来るか?」と誘ってくださいました。昔から、「大学の教壇に立ちたい」という憧れがあったので、即座に「行きます!連れて行ってください!」と(笑)。本当によいご縁をいただいたな、と思っています。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマを教えてください。
  • 松下政経塾の「塾是」(塾の基本理念)に、「人類の繁栄幸福と世界の平和に貢献しよう」という一節があります。そんな大上段な目標でなくても、何か、世の中のために役に立ちたい、またそんな人を育てたい、と思っています。私がテーマにしているのは「民主化」です。デモクラシーとは、国民が公平・公正な選挙で政治家を選ぶ仕組みのことです。デモクラシーの社会では国民と政治家は車の両輪です。どちらかだけが優れている、ということはありません。政治学を学ぶことによって、またゼミやさまざまな活動を通して、優れた政治家と同時に優れた国民(有権者)を育てることが、私の使命だと思っています。
  • タイにもお詳しいですね。
  • 私は二十代にタイという国で生活しました。大らかでちょっといい加減で、それでいてしたたかなタイが大好きです。タイ王国タマサート大学日本研究センターの客員研究員をしたこともあります。タイは第2の母国だと思っています!国際学部では、政治関係の他に、「タイの歴史と文化」「タイの政治と経済」という授業を担当しています。目的はずばり「タイを好きになること」。タイに行ったことがある人はますます好きに、行ったことがない人はぜひ行きたくなるような、そんな授業を目指しています。好きな人が多いほうが毎日は豊かです。同じように、好きな国が多いほうが人生は楽しいですよ。
  • これから国際学部に入学を希望している学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • ここ数年、夏休みに学生とアフリカを訪れています。サハラ砂漠以南は、所得が日本の100分の一以下、というような国が多い。水道や電気も十分に届いては居ません。日本なら小学校に入ったばかり位の子供たちが、時には数キロかかる井戸までポリ容器を持って水を汲みに行きます。その姿に、日本人学生も胸を打たれるようです。「先生、生きていくって大変なことなんだね」ともらしたのが印象的でした。日本に帰ってくると、あまりの物の多さ、豊かさに目が回りそうになります。デパ地下に行けばありとあらゆる食べ物が豊富に並び、お店は清潔でサービスもよい。戦いや貧しさ、危険の中で暮らしている人たちから見たら、60年以上平和の続いている日本は、それだけでパラダイスです。なのに、日本は「不幸だ」「つまらない」「かったるい」と言う人がいます。その原因は、「日本人は自分のことしか考えていない」からではないかと思っています。どんなに恵まれていても、自分のことしか考えていない人間は幸せになれません。なぜならば、自分中心で他人と比較している限り、これも欲しい、あれも足りない、になってしまうから。拓殖大学は、公に生き、公に奉仕する人を育ててきました。自分以外の何者かのために力を使うことによって、人ははじめて誇りを手にします。そのような誇りのある学生生活を送ってください。
  • 最後に一言を。
  • いろいろ言いましたが、楽しくなければ何事も続きません。「楽しい」ことには限りがありますが(ディズニーランドだって、何度も行くと飽きてくるでしょう?)自分で「楽しむ」ことには限りがありません。国際学部にはチャンスが石ころのようにころがっています。積極的に働きかけて、充実した学生生活にしていきましょう。
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佐藤 明彦 教授

言語学の知識を英語教育に活用する

佐藤 明彦 教授


佐藤 明彦 教授
エセックス大学言語言語学学部音韻論修士課程・言語学博士課程修了(Ph.D. in Linguistics)。拓殖大学言語教育研究科言語教育学修士課程修了。2000年に拓殖大学言語文化研究所の専任講師となり、2007年、国際学部に赴任。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 大学時代、一番印象に残っているのがゼミ活動ですね。東南アジア研究がテーマでした。ご指導いただいた先生は人望のある研究者でした。ゼミ合宿、発表会などの活動を通し、先生、先輩、友人と大いに語り合った時期です。卒業後は企業で数年間働きましたが、その後教職を目指し大学院で学びました。
  • 大学院での生活などについてお聞かせください。
  • 最初の大学院に入った時に英語教員免許も取得しましたので、授業数がとても多く日曜以外は午前午後常に講義を受けていた印象です。勉強は忙しかったですが、学問と向き合い研究の面白さを知った2年間でした。
    その後、イギリスにあるエセックス大学に8年間在籍し、MA in Phonology、Ph.D. in Linguisticsを取得しました。長時間、図書館やスタディルームで書籍に向かい学位論文を作成していたことを思い出します。留学中には辛いこともありましたが、いつも周りの人々に助けられて自分の夢を実現させることができました。
  • 大切にしている言葉などがあればお教え下さい。
  • "A friend in need is a friend indeed"(困った時の友こそ真の友)、自分がつらい時、力になってくれるのが親友です。そのような関係を築くためには、自分も努力し、成長していかなければなりません。これからもそのような人の輪を作っていきたいと思います。
  • 国際学部への赴任についてお話しいただけますか?
  • 2000年度から言語文化研究所の専任講師として勤めていて、2001年度からは(旧)国際開発学部でも兼任教員として英語の授業(Public SpeakingⅠ・Ⅱ)を担当していました。そして組織改組に伴い2007年、国際学部に赴任しました。
  • 関心を持たれている研究テーマ、内容について教えてください。
  • 対照研究として、英語と日本語を比べるリサーチを広義のテーマとしています。現在、日本人学習者、および外国人留学生の英語発音について研究しています。また、効率よく効果的な指導が可能になる英語教材を開発しています。
  • これから国際学部に入学し、先生のゼミ・授業を受講する方に伝えたいことは何でしょうか?
  • "Time Flies"(時間は飛ぶように過ぎ去る)、楽しい時ほど早く過ぎてしまいます。多くの人が「大学時代が一番楽しかった」と言うように、この4年間は最高の時間となるでしょう。ご家族、友人を大切にし、よく学んでください。部活・サークル、ゼミ、留学、資格試験、アルバイトなど、多くの機会もあります。ただ、卒業後はもう社会人の仲間入りですので、大学生活では「責任感」も同時に学べるといいですね。
    私のゼミでは、対照研究とフィールドワークというテーマで、さまざまな国際的視点を持てるよう指導しています。真面目に取り組むゼミ生ばかりで、海外経験など有意義な大学生活を送っています。受験生の方には、「この美しい自然に恵まれたキャンパスでお会いできることを楽しみにしています」と伝えたいです。
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佐藤 伸一郎 教授

日本固有の身体運動文化、武道(BUDO)で世界へ

佐藤 伸一郎 教授


佐藤 伸一郎 教授
1990年筑波大学大学院修士課程修了、そのまま筑波大学準研究員を5年やり、1995年北海道の道都大学の専任講師として奉職。2000年より拓殖大学柔道部の監督として東京に出てきました。2017年から国際学部の教員へ。
  • 先生のことについて教えてください。
  • 学生時代
    大学にはスポーツ推薦で入学しました。大学の専攻は第一専攻が「柔道」、第二専攻が「柔道方法論」でしたから、大学には柔道をしにいったようなものです。しかし、田舎の進学校出のプライドだけは高く、世間知らずでしたから、「大学柔道だって何とかなるだろう」と高をくくっていたら、おもちゃのように投げられて、押さえ込まれて、関節技を極められて、首を絞められて落ちる(気絶することです)。最初の二年間は「あー、今日も何とか生きのびた」と息も絶え絶えな状況が続きました。レベルが違いすぎて、何をどうやってもどうにもならない、そういう世界があるのだなあということを初めて知りました。しかしこの強烈な経験は私にとってはその後に柔道を仕事にするまでになる原体験となりましたし、絶対に必要なものだったと思います。最初に一度、鼻っ柱を徹底的にへし折られることが次へのステップになり、自分のモチベーションを高めるきっかけにもなったということです。

    鍛える時代(競技の終わりとコーチング)
    個人、団体ともに学生チャンピオンにはなれましたが、まだ選手を継続したいという気持ちと将来大学教員にという希望の二つを満たすためにそのまま母校の修士課程に進みました。専攻は「コーチ学」です。二年間でしたが柔道と修士論文以外は何もやっていないくらい没頭しましたが、シニアの大会ではソウルオリンピック最終選考会3位が最高の成績でした。その後は幸いなことに筑波大学の柔道研究室に準研究員(助手のようなもの)の空きが出たので5年間勤めました。そこでの仕事は、三人の柔道教員の助手、柔道部のコーチ、4年生と大学院生の論文指導、柔道部OB会の事務局、といったまあ何でも屋です。先生方の様々な雑務と学生に対して論文指導をさせてもらったことはその後の大学教員として大いに役に立ちましたし、筑波大学の柔道部には高校時代に優秀な実績を持った後輩が大勢入学してきたので、大学院で学んだことを実際に後輩たちに対して教えることができ、彼らがよい成績を残してくれたのは得がたいコーチングの経験となりました。

    北海道時代
    筑波大学に5年勤めてから恩師の紹介で柔道部の強化をしたいということで、北海道の道都大学の教員として赴任しました。そこで初めて自分のチームを自分で作る経験をしました。それまで学んだことを発揮できる場所を与えてもらったので毎日が楽しかったですね。
    北海道では常に一番の成績でしたが、恩師と拓殖大学柔道部OBの方が懇意で、監督をやらないかと声をかけていただき上京することにしました。

    柔道一流選手と研究
    大学院生の頃から現在まで、全日本柔道連盟の強化委員会「科学研究部」に所属しています。これはナショナルチームの選手を科学的にサポートするために作られた部局です。ここがきっかけで日本オリンピック協会のトレーニングドクターや専任の情報戦略担当官をさせていただきました。北京五輪では、国際大会において全試合映像を撮影し、それを即時にコーチや選手にフィードバックするシステム開発を行いました。
    北京オリンピック前は8mmテープが主流でカウンター表をつけながらバッテリーの充電をしながら二試合場を同時に撮影しながらコーチや選手の見たい映像のリクエストに応えるといった一人五役くらいできないと勤まらない仕事で、海外に行くとずっと睡眠時間がとれずに地獄のような日々を過ごしたことを思い出します。一人で一ヶ月四カ国を回った経験もあります。そしてそういう仕事をしている連中が各国にいて、お互いに協力体制を作って仕事をやったものです。今でも彼らとはつながっています。
    現在は科学研究部部長という立場になったのでプロジェクトの取りまとめや人員配置等の仕事をしています。

    海外柔道指導
    毎年のように海外へ柔道の指導にも派遣されています。ヨルダンやインドネシアに派遣されたときには大学院の同級生が先方の受け入れ責任者だったり、パプアニューギニアに派遣されたときには先方の柔道連盟会長が後輩の教え子だったり、案外柔道界は狭かったりするのですが、それはすべて筑波大学で作った人脈と経験があってこそのものです。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 学生時代はホンモノに出会う時代です。ホンモノと接触をして今までの自分は何もわかってないし何もできてなかったのだなあと落ち込む時代でもあります。しかし、それは次なる飛躍のための雌伏です。蝶になるための蛹です。ホンモノになるための儀式のようなものです。ホンモノにぶつかってけちなプライドを一度砕け散らせ、そこから再構築しホンモノの力をつけていきましょう。自らがホンモノになるために。恐れることはありません。こちらへ飛び込んでくることを待っています。
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佐藤 丙午 教授

国際関係論、安全保障論、国際政治経済論

佐藤 丙午 教授


佐藤 丙午 教授
一橋大学法学研究科修了(博士)。防衛庁防衛研究所の勤務を経て、2006年から拓殖大学海外事情研究所、2013年より国際学部へ。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 拓殖大学の海外事情研究所に所属していました。海外事情研究所は拓殖大学の中でも歴史がある機関で、文字通り海外の事情の調査や、各種国際会議への参加を通じた国際社会の議論への貢献、研究所内では学術誌の『海外事情』の発行など、様々な学術活動を実施しています。私も研究所では、編集担当を務めていました。私が海外事情研究所に入った時は、所長が現総長の森本敏先生、さらに安全保障研究の佐瀬昌盛先生、ロシア研究の木村汎先生、軍事研究の江畑謙介先生などがおられ、非常に知的にも人間的にも大きく刺激をいただきました。現在は、海外事情研究所の副所長を務めています。
  • なぜ拓殖大学国際学部で教員・研究者の道を志したのですか?
  • 国際学部に移動する前から、拓殖大学大学院で教えていましたので、次世代の研究者教育には携わってきました。また、歴史ある拓殖大学の教授を拝命していますので、そもそも研究者でないと国際学部で教えるのは難しかったと思います。海外事情研究所にいた時は、国際学部の学生は桂太郎塾を通じて触れる機会しかありませんでしたが、その際に国際学部の学生は、政経学部や商学部の学生と比較して、活発で好奇心旺盛だけど、学問をする上で基礎的な知識と教養に欠けている、という印象でした。もし私に国際学部で役割があるのであれば、学問の基礎を教えていけたらと思っています。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • 学部では、国際政治入門、安全保障、日米関係、それとゼミナールを担当しています。国際学部の抱える大きな問題として、これらの科目がアカデミックな意味で「論」や「学」ではなく、トピックスのように扱われていることです。ただそうなるにはいろいろな経緯があると聞きましたが、やはり国内の他大学や世界の大学の学生と競争する上で、一定の水準になければいけないとおもいます。さらに、拓殖大学のように、国際関係論や国際政治学を中核として発展してきた大学において、これらが学問として教えられていないのは、大きな問題と思います。そのような思いを持って、学生にはできるだけ厳しく接していくことを心がけています。
  • 現在、関心を持たれている研究テーマをお答えください。
  • 現在は、軍備管理軍縮の将来について関心を持っています。国際社会では、条約をベースにした軍備管理軍縮の限界が指摘されています。核兵器から通常兵器に至るまで、冷戦期に、さらには冷戦後に作り上げられてきた軍備管理軍縮のレジームが限界を迎えつつあります。この先に何があるのか、国際社会の研究仲間と様々な場で議論しています。さらに、新技術の安全保障上の意義についても研究しています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 言い方は厳しいですが、国際学部での教育だけでは、国際社会の議論に能動的に関与していくのは難しいと思います。国際社会の議論を見るにつけ、基礎的な教養の力と、新しいものを積極的に取り込んで行く柔軟さが必要だと痛感します。これまで国際学部では、アジアの開発、それも日本の開発援助を中心に、現場主義が重要とされてきました。海外事情研究所での経験から、さらには国際社会の議論に触れるたびに、日本の国際政策の議論を1970年代や80年代のマインドから解放する必要があると痛感します。アジアや開発、現場主義がダメと言っているわけではありません。日本が再び国際社会にキャッチアップする必要が生まれています。日本の過去の栄光に酔うのではなく、未来のために貢献できる人間になってほしいと思います。その中で、アジア、開発援助、現場主義の意義も再確認してほしいと思います。
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佐原 隆幸 教授

参加型開発の手法で、現地の人々と一緒に考え、
問題解決を。

佐原 隆幸 教授


佐原 隆幸 教授
マンチェスター大学で開発行政(論文博士)を学ぶ。1980年から22年間、国際協力事業団に。その間に在チリ日本大使館書記官、国際大学客員教授、インドネシア事務所次長などを経験。2001年から国際学部へ。
  • 先生はどのような大学生活を送っていましたか。
  • 入学当初は使える英語をマスターしようと意気込んでいました。しかし2年生のときにフィリピンに1年留学した際に、途上国の貧困を「どげんかせんといかん」という思いがわきあがり、結局は大学院でフィリピンの農地改革についての修士論文を書き、その後JICAに就職することになりました。途上国について目が開いた4年間でした。
  • 大学卒業後はJICAに行かれましたね。
  • そうです。JICAに22年間奉職しました。その間,外務省に出向し、経済協力局政策課でのアフリカ担当、チリ大使館勤務、JICA帰団後は企画部でのフィリピン担当、英国留学、プロジェクト評価担当、国際協力専門員、国際大学での開発計画の教授、インドネシア在勤、アジア一部での開発計画作りなどを経験しました。
  • 人生の転機となるような出来事がありましたか。
  • 人生の転機はやはり南米での在勤と、英国での留学生活、そしてインドネシアで現地の人とともにプロジェクトを進めていったことです。やはり海外での経験がステップになったと感じます。
  • なぜ拓殖大学国際学部に来るようになったのですか。
  • 直接的には渡辺先生(当時学部長)に、一緒にやらないかと、誘われたことです。若い人を育てて多くの人に日本の国際協力を支えてほしいという思いからです。打てば響く学生に多数出会えました。
  • 現在のご専門・研究内容についてわかりやすく説明してください。
  • 開発計画の中でも、参加型開発に重心をおいています。現地の人々と一緒に考え問題解決をしていく手法を作り上げていくことです。参加型開発手法は英国のモデルが有名です。しかし拓殖大学も100年の歴史を持つ大学です。そこで拓殖大学アプローチを学生とともに開発し、この分野の議論に一石を投じたいと考えています。
  • 最後に学生へのメッセージをお願いいたします。
  • 一緒に国際開発にかかわりましょう。考えるだけでなく、社会とかかわっていきましょう。自分で企画して動いてみることが重要です。学習―行動―評価―計画―行動のサイクルをつなげていく中で、仲間との連帯が育ち、皆さんもその潜在力を伸ばすことができます。また人としての自信とリーダーとしての資質も手に入れられますよ。
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椎野 幸平 准教授

アジア経済とFTAを両軸に研究

椎野 幸平 准教授


椎野 幸平 准教授
青山学院大学大学院国際政治経済学研究科修士課程(国際経済学専攻)修了。日本貿易振興機構(ジェトロ)でインド、シンガポール駐在などの勤務を経て、2017年から国際学部へ。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 1994年から2017年まで、政府系機関の日本貿易振興機構(ジェトロ)で仕事をしていました。ジェトロでは、調査業務を中心に、「ジェトロ世界貿易投資報告」という世界の貿易、直接投資、自由貿易協定(FTA)などの通商政策の動向などをまとめる報告書の執筆やアジア経済を中心とした調査を担当していました。海外にはインドとシンガポールに駐在しました。インドでは調査業務を通じ、立ち上がりつつある新興国の力強さと課題を実感し、アジアのハブとして機能するシンガポールからは東南アジアを広域的に調査する機会に恵まれました。
  • なぜ拓殖大学国際学部で教員・研究者の道を志したのですか?
  • 前職で東南アジアやインドを中心とするアジア経済、FTAを中心に調査を担当し、やり甲斐を感じていましたが、残りの人生は専門分野をより深めて研究活動をしていきたいとの思いが強まったことなどがあります。拓殖大学国際学部にはアジアを専門とされる先生方が多数在籍され、アジアの研究者のクラスターがあることに魅力を感じていましたが、縁があり、その一員に加えて頂いたことを光栄に感じています。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • 東南アジア、インドの政治・経済、マレーシア・シンガポールの政治と経済、国際経済入門、地域研究の方法などを担当しています。東南アジア、インドの政治・経済、マレーシア・シンガポールの政治と経済は各国別に政治・経済構造を理解していくことに重点を置いています。一方、国際経済入門、地域研究の方法については、基礎的な経済学の理論や分析方法について授業を行っています。
    東南アジアは1980年代以降、輸出主導で成長を続け、日本企業も多数進出しており、国境を越えた生産ネットワークが張り巡らされている地域です。ASEAN経済共同体など地域大での枠組み構築も進展しています。また、1991年に経済改革を開始したインドは中国に続く新興経済大国として、世界経済の中で存在感を高め、中長期的にみてその重要性を増してくると考えられます。
  • 現在、関心を持たれている研究テーマをお答えください。
  • アジア経済を長年みてきた中で、重要な課題の一つにFTAがあります。FTAは国際経済学の枠組みの中で長く研究されているテーマの一つです。2000年代にアジア地域ではFTAの発効が相次ぎ、現在では約60件ものFTAが発効しています。また、TPPやRCEPなどのメガFTAにも、東南アジア諸国が参加しています。FTAは貿易や投資を通じて各国の経済成長を促進するとともに、日本企業をはじめとした企業のグローバル・バリュー・チェーンの構築を支える基礎的なソフト・インフラとなっています。一方で、貿易や投資などのグローバル化に反対する声が各国で存在していることやFTAに消極的な国があることも事実です。こうしたFTAが貿易やビジネス活動にどのような影響を与えたのか、FTAの便益を最大化するために解決されるべき課題などについて関心をもって研究を続けています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • これから日本社会、日本経済にとって重要な要素の一つは、グローバル人材をいかに養成していくかにあります。同時に、いかに外国人留学生に日本で学んでもらい、母国とともに日本でも活躍してくれる人材を養成していくかも重要です。グローバル化が全てではありませんし、グローバル化する時代だからこそローカルが重要となることもありますが、これから大学で学ぶ学生の皆さんにとってグローバル化に対応できる人材になっていくかは、一段と重要な要素となっていくものと思います。そのためには、大学でしっかりと教養・専門分野と語学力を身につけることが重要な一歩になると思います。大学では様々な経験の蓄積とともに、どのような分野でもいいので、考える力の基礎となる専門分野を一つ身につけることを目標にして取り組むことが大事だと考えます。
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鈴木 なつ未 准教授

スポーツを通して世界と繋がる! ~する、みる、ささえる~

鈴木 なつ未 准教授


鈴木 なつ未 准教授
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 スポーツ医学専攻修了。博士(スポーツ医学)。(独)日本スポーツ振興センター国立スポーツ科学センター、筑波大学 Research & Developmentコア、(公財)日本スポーツ協会で研究員として、長年にわたりトップアスリートのコンディショニングに関する研究やサポート等に従事。2021年に拓殖大学へ。(公財)日本オリンピック委員会強化スタッフ、(公財)日本スケート連盟スピードスケート科学スタッフ、(公財)全日本柔道連盟科学研究部員等を務め、2008年北京、2012年ロンドン五輪では、スタッフとして現地で活動。
  • 先生はどのような大学生活を送っていましたか。
  • ●大学時代(拓殖大学 商学部 在籍)
    私は、拓殖大学に体育推薦(柔道部)で入学しました。当時、柔道部には国内トップクラスの選手が集まっており、練習やトレーニングはもちろん、寮生活も大変厳しかったことを、今でも思い出します。その様な中では、講義についていくのが大変でしたが、教職の授業で素晴らしい先生に出会ったこと(三浦 正 名誉教授)、また、体育推薦の同級生だけでなく、一般の学生とも親しくなれたことで、勉強も頑張ることができました。柔道部では、3年生になる時に、現在も柔道部を指導していらっしゃる、佐藤伸一郎先生(国際学部 教授)に監督が代わりました。この佐藤先生との出会いが、私の人生の転機です。先生の指導は、スポーツ科学に基づいており、それまで私が触れたことのない世界でした。その後4年生になった私は、競技を続けたい気持ちもあったものの、ケガを抱えていたこと、自分の競技力では競技を仕事とするのは難しいと考えました。そこで、スポーツ科学を学びそれを競技者に還元出来るような人になりたいと考え、佐藤先生に相談し、筑波大学大学院への進学を勧めて頂きました。しかし当時の私には、スポーツ科学等に関する知識がほとんどなく、大学卒業後は、筑波大学の研究生として入学し、1年間にわたり講義やゼミの勉強会に出席し、合間に図書館で勉強しながら、筑波大学大学院入学を目指しました。1年後、晴れて筑波大学大学院に合格し、入学しました。
    ●大学院時代(筑波大学大学院 在籍)
    筑波大学に集まる学生は非常に優秀な学生が多く、自分とは雲泥の差だったので、圧倒される日々でした。でも、とにかく皆が優しく、一緒になって私を助けてくれました。ゼミでは、週に1度勉強会があり、院生が順番で抄読した論文のプレゼンをしていました。1本の英語の論文を読むのに、物凄く時間がかかっていた私は、抄読会の1か月以上前から準備を始め、グダグダになりながらも何とかこなす、というのが1年目でした(笑)。そういう日々の積み重ねで、何とかやっていましたが、研究者としての道を歩むということは、かなり厳しいものでしたので、とても辛く苦しく、途中何度も辞めようかと考えました。それを留まらせ、やり抜くことができたのは、ゼミの教授や先輩、同級生、後輩などの仲間たちが、家族のように付き合い、支え、指導してくださったからです。また、大学時代の厳しい競技環境を乗り越えられた気持ちの強さが、自分自身を支えたと思います。大学院時代の仲間達は、その後、仕事仲間としても共に働く事が多く、今でも強い繋がりがあります。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 大学院修了後、トップアスリートの研究や支援に携わりたいと考え、(独)日本スポーツ振興センター・国立スポーツ科学センターなどの、スポーツ関連団体で研究員として勤めました。多い時には、月に1~2度海外でのサポートに出向いたりする事もあり、各地を飛び回っていました。アスリート達とは、寝食を共にし、泣き笑い、多くの時間を過ごしてきました。特に印象深いのは、平昌オリンピックでのスピードスケート選手達の活躍です。メダリストとなった選手達を含め、スピードスケート代表選手の大半を、ジュニア選手の頃からコンディショニングの面でサポートしていたので、現地で選手達の姿を目にした時には、非常に感慨深いものがありました。また、これまで多くの女性アスリートのコンディショニングサポートに携わっています。女性アスリートは、女性特有の課題(月経やそれに伴う体調の変化、その他関連するコンディション等)を抱えています。それらは、アスリートとしての競技パフォーマンスに直結するだけでなく、女性としてのQOL(Quality of Life)にも影響を及ぼすため、対応が急務となっています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 私は、スポーツ医学や健康科学などの授業を担当します。アスリートも、今は競技をやっていない人も、自分の身体、自分のコンディションに興味を持ってほしいと思っています。何か特別な事をするのがコンディショニングではありません。自分の日々の体温、体重、それを記録するだけでも、コンディションに向き合っていることになるのです。自分の気持ちの変化、それを知ることも同じです。コンディショニングは自分を知ることです。
    そして、アスリートの国際競技力向上に携わる人、支える人がたくさんいることを知ってほしいと思っています。スポーツ医学をはじめ、運動生理学や生化学、栄養、心理、トレーニング、リハビリ、バイオメカニクス、メディカルドクター、トレーナー、情報・IT、通訳、メカニック等々・・・本当にたくさんの専門家の皆さんがアスリートを支えています。それだけ、スポーツ、アスリートに携わる職業があります。皆さんが大学生活の中で、競技に励む励まないに関わらず、【スポーツ】に興味を持ち、スポーツを通じて世界と繋がることや、【する、みる、ささえる】を通して、スポーツ界に貢献出来る人材になれるような手助けをし、一緒に学んでいきたいと思っています。
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竹下 幸治郎 准教授

ラテンアメリカを様々な角度から斬る

竹下 幸治郎 准教授


竹下 幸治郎 准教授
上智大学外国語学部ポルトガル語学科卒。日本貿易振興機構(ジェトロ)にてブラジル、チリ駐在、中南米経済の調査や戦略部門での勤務経験を経て、2019年から拓殖大学国際学部へ。ラテンアメリカ、特に南米経済、企業経営戦略、通商政策などを専門とする。
  • どんな学生時代を過ごされていたのですか?
  • 自分の視野を広げることに主眼を置いて、とにかく高校生までと違うことをやろうと思っていました。中学、高校とラグビー漬けの毎日でしたが、大学ではそれまで全く縁のなかった中南米音楽のサークルに入り、まったく性格・趣味の異なる学生たちと付き合ってみました。アルバイトも単にお金を稼ぐだけではなく、いろんな体験をしたかったので、予備校の学生寮管理、ライブハウスのホール、交通量調査、女性雑誌の統計整理、イベント警備、郵便局の仕分け、旧国立競技場の清掃、夏祭り出演(サンバ演奏)など面白そうなものを手当たり次第やりましたね。そして長期休みは必ず開発途上国をバックパック担いで1月以上一人旅していました。行き先は、東南アジア、南アジア、中東、アフリカなどの途上国でした。アルバイト先や旅先で様々な趣味、考え、個性、国籍の人たちとの交流を通じて、様々な価値観に触れ、自分を見つめ直すことの多い学生時代でした。
  • 国際関係の仕事に就かれたのもそういう経験が影響しているのですか?
  • そうです。旅先で現地の方から「先進国の援助には感謝しているけど、本当は自分で稼いで家族を養いたい」と聞き、初めて企業の果たす社会的役割に気が付きました。それまでは企業活動がもたらす環境やコミュニティへの負のインパクトをゼミで議論することが多かったのですけどね。その後いつしか現地に雇用をもたらす仕事がしたい、そしてその仕事を通じて旅で世話になった途上国の方々に恩返しをしたい、と思うようになったのです。海外市場の活路を求める日本企業の支援を行うジェトロに入り、現地に雇用を生むようなお手伝いができたのは幸運でした。
    1998年から満を持してブラジルのサンパウロに駐在し、そこから退職まで殆どの期間、ラテンアメリカ関連の業務を担当しました。サンパウロ駐在時は、ブラジル通貨危機が発生しました。経済混乱からの回復プロセスをつぶさに観察し、数多くのレポートを書きました。同じ南米でも先進的なチリですが、2010年2月に発生したM8.5 の大地震の際に防災インフラの脆弱さを目の当たりにし、日本の防災技術移転の仕事を新たに創りました。数えきれないほどの日本企業の訪問も受け、現地の貿易投資環境の説明などをやりました。東京本部では、中南米全体の戦略を立てたり、総理の中南米外遊の際の経済セミナー運営企画などの仕事を任されたりしました。ほんとに様々な業種、いろんな国々の企業関係者や要人とお会いさせていただきましたね。生産現場もみるのが好きで多くの工場、農地を視察しました。
  • 国際学部ではどんな授業をしているのですか?
  • アクションラーニングを織り交ぜた授業を心がけています。学生時代や前職での勤務を通じ、ラテンアメリカの様々な立場の人たちと付き合ってきたので、同じテーマについても立場や時代が違えば見える風景が全然違うことを私は知っています。そのため授業では「当事者目線に立ってみる」ことをよくやります。為政者側、企業側、庶民側それぞれの視点で考えてみるということです。
    SNS全盛の時代で皆、自分と主義主張が似ている人からの情報のみをインプットしています。これは非常に危険なことです。自分と立場が異なる人の目からみると、同じテーマでもとらえ方が違うということを知らない人ばかりになると社会は不安定化します。「人はそれぞれ感じ方、考えが違うんだ」ということを体感することは、今の学生には必要なことだと思っています。
    また、いろんな形で自分の考えをアウトプットすることは、記憶の定着に役立ちます。さらに、他人の話を聞きつつ、自分の主張とどう折り合いをつけるかといったスキルは、社会に出るとありとあらゆる場で使います。グループワークを通して学生にはこうしたスキルを身につけられるような場を数多く経験してもらおうと思っています。そんな体験をしながら学生が。ラテンアメリカへの関心を深めてくれれば嬉しいですね。また、ラテンアメリカで起きたことは、他の地域で起きたことと共通する部分も多いので、受講学生が学習内容をふまえて、世界情勢を分析できるようになれるといいなあと思います。
  • 先生がラテンアメリカで今、最も注目していることは何でしょう?
  • 新しい時代を「開拓する」スタートアップ企業です。彼らが「社会課題を解決するソリューション」を世の中に提案し始めているのに注目し、今後の研究テーマに据えようと思っています。ひどい治安、所得格差に根差した教育、医療の格差などラテンアメリカには多くの社会課題がありますが、これを新たなビジネスモデルで解決しようという民間部門の動きは、予算不足で十分な公的サービスができない政府の役割を一部代替しつつあるという意味でも大変興味深いです。実は日本企業でもそうした課題解決のソリューションをもった企業がすでにラテンアメリカに進出を始めているんです。そうした最新の動きも授業では伝えていきます。

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竹下 正哲 教授

本物の学びは体験の中にこそある

竹下 正哲 教授


竹下 正哲 教授
北海道大学・大学院卒業。青年海外協力隊に参加し、初めて貧困の現場にふれる。その後、自分自身が極貧に苦しみながら、小説家を目指してさまざまな職を転々とする。2011年より拓殖大学へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 20才の春、将来は小説家になろうと決めたので、たくさんの世界を見てやろうと色んなバイトをしました。長かったのは夜の繁華街の黒服で、他に水泳コーチ、マジシャン、着ぐるみ、森林調査員などもしました。どれもおもしろい人間模様を体験できました。また毎日4時間ぐらい空手の練習をしていて、大学のトレーニングジムが我が家のようでした。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ研究者を志すようになったのですか?
  • なぜでしょう。僕は30才をとうに過ぎても定職についておらず、いわば「社会のレール」から外れた道を歩いてきました。自分でそうしようと選んだのですが、予想以上に険しい道で、しまいには明日のパンすら買うお金がなくなって、ホームレス寸前まで落ちぶれました。でも振り返ってみると、そのどん底の経験があったからこそ、人の苦しみが理解できるようになりました。たくさんの挫折がありましたが、挫折こそが「人生の大学」だった気がします。研究の楽しさ、ありがたさに気づいたのも、きっとそのときでしょう。
  • 就職先などで何か特筆すべきエピソードや人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • アフリカで、初めて餓死する子どもを見たことでしょう。青年海外協力隊でアフリカ・エティオピアに行ったときのことです。当時のエティオピアは内戦が終わったばかりで、町には手足を失った人たちがあふれていました。みんな交差点に座り込んでいて、信号が赤になって車が止まると、手だけではってきて、窓ガラスをとんとんと叩いて、お金をせがむんです。ショックでした。自分は世界のことを何一つ知らない、と実感した瞬間でした。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • 武道を長いこと続けているのですが、探求すればするほどに、過去の人が残した叡智のすごさにいつも驚かされます。研究も同じで、今人類はたくさんの問題を抱えていますが、その解決策は未来にあるのではなく、実は過去にしっかりと残されている気がしてなりません。 例えば農業を見てみると、現代農業と呼ばれるものは、実は石油漬けの農業です。ある試算によると、我々は1年間で2000リットルの石油を飲んでいることになります。石油には限りがあるし、必ず環境を破壊します。そんな農業が長く続くはずはありません。では、どのような農業がよいのか。その答えの一つとして、今ヒンドゥーの古代農法を探っています。それは聖典ヴェーダにも書かれている手法で、今年はネパールのヒンドゥー寺院に学生と一緒に泊まり込み、その一端を垣間見てきました。 そのように、失われた叡智を、農業に限らず多方面で発掘しようとしています。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • たぶん本当に大切なことは、ただ講義を聴くだけでは、決して身につかないと思います。すごい人を探し出して、その人の何気ない行動や言葉から、大切なことを盗み取らなくては。

    僕の武道の師匠が、そのまた師匠から瞑想の極意を学んだときのエピソードがあります。師匠がそのまた師匠とあるお寺に行ったとき、さりげなくこう訊ねたそうです。「先生は、このお寺でかなり激しい稽古をされたんでしょうね」と。すると、そのまた師匠は「いやいや、たいしたことないさ」と笑いながらも、無意識にお寺の一角に鋭い視線を向けたそうです。師匠はその視線を見逃さなかった。その瞬間「ああ、先生はあの一角を見つめて瞑想をしていたんだな」と悟ったんだそうです。

    本当の学びとはこういうものではないでしょうか。師匠のたった一つの視線から、極意を発見するといったような。そのためには、常日頃から「答えはどこにあるのだろう?」と探していなければなりません。そんな宝探しの毎日は、それはそれは楽しい世界だと僕は思うのです。
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武田 晋一 准教授

センサーを使った道路交通状況の把握を研究

武田 晋一 准教授


武田 晋一 准教授
日本大学大学院理工学研究科博士前期課程修了。1991年(株)竹中土木に入社。1993年東京工業大学工学部助手を経て、1998年拓殖大学へ。
  • 先生はどのような大学生活を送っていましたか?
  • 付属高校から日本大学理工学部、交通土木工学科(現社会交通工学科)に進学しました。理由は単純、飛行機、自動車、鉄道etc乗り物好きだったからです。大学2年生で「交通計画第一研究室」に出入りするようになり、そのまま同専攻の大学院へ進学しました。同時に音楽にも夢中でした。大学内のサークルではなく社会人の音楽仲間と交流するようになって一層見識が広まりました。学生時代に様々な職業の人と接することは得がたい経験でした。
  • 大学卒業後、まずゼネコンに就職されたようですが?
  • 竹中土木という建設会社に入りました。内々定?は工務店だったのですが、AIT(アジア工科大学、バンコク)にて、(竹中土木より派遣中の)本城先生に「君は土木だろう!」とお叱り?を受け変更しました。1年目はトラックプール造成現場とパトリオットサイト造成現場の2ヶ所に勤務し、不屈の現場魂を養いました。2年目は本社・技術開発本部に入り、ダムのリフトスケジューリングシステムの開発を中心に、様々な現場での新工法試験などを経験しました。
  • どうして大学に戻られたのですか?
  • 私の師匠(日本大学理工学部福田先生)と東工大樋口先生がAITでご一緒していたのが御縁のはじまりです。樋口先生はオーストラリアの国立研究機関にいた方で、非常にフィールドサーベイを大事にする計量経済学が専門の先生でした。その厳しくも温厚な人柄に「魅力を感じ、東京工業大学社会工学科(情報理工学研究科)の助手になりました。全く異質な分野ですから最初は戸惑いました(ゼミ生も戸惑ったようです)。しかしデータ分析の重要性は、大学で専攻した交通計画、竹中での仕事である現場管理やダムの施工計画、そして経済分析でも変わるところはありませんでした。この時のゼミ生とは今でも親交があり、後述する「一門会」を形成する素地になりました。
  • 現在のご専門・研究内容についてわかりやすく説明してください。
  • 大きく2つあります。1つはセンサーを使った道路交通状況の把握です。よく交差点で車の数を数えている人がいますよね。あれはものすごく大変ですし、お金もかかるし、毎日は出来ません。そこで簡便な汎用センサー+PCのレベルでどこまで出来るかを研究しています。昨年は路上駐車車両を計測するシステムを広島市で実験しました。今は次の基礎実験をしています。日本大学やエンジニアリング会社との共同研究で、もちろんアジア各都市への展開も視野に入れています。もう1つは国際産業連関表分析です。国際間の産業同士の結びつきを解明するというものです。特にアジアの分業化の進展をテーマにしています。既存のスカイラインマップという手法を時系列に拡張した「スカイライングラフ」という手法を提案しています。
  • ところで「一門会」とは噺家の集団ですか??
  • これは東工大のゼミOBと拓大のゼミOB・OGを中心とした会です。幹事は5人ですが、時折20人以上集まっておいしいものを食べたり飲んだりしています。ゼミナールの付き合いは大学で終わるものではなく、その後のほうが重要なのかもしれません。社会に出た元ゼミ生の話を聞いていると、私も非常に勉強になります。現役のゼミ生も参加しますが、彼・彼女達には私が言うより数段説得力があるようです(笑)。東工大のOBたちとはお互いの子供同士を含めて家族ぐるみの付き合いですし、これからも大切にしたいと思っています。
  • 最後に学生へのメッセージをお願いいたします。
  • 私は過去「いい時期にいい人に声をかけてもらったこと」に感謝しています。ゼミの先輩に竹中の話を頂いて、師匠に東工大の話を頂いて、研究つながりで拓大の話を頂いてというわけです。「就活してないじゃん!」という突っ込みを受けそうですが、その時その時に一生懸命「ベスト」を尽くしていると、いつのまにかレールがしかれることもあるのです。学生時代は(主で)勉強も(副で)趣味も何でも、主体性を持って一生懸命やるといいと思います。簡単にあきらめたり、投げ出してはいけません。一所懸命やると必ず何か残ります。一生懸命やっていると必ず道は開けます。そして「あいつに任せよう」「あいつに任せれば安心だ」と「仕事を依頼される人」を目指してください。
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戸川 点 教授

歴史が好きで教員になりました。

戸川 点 教授


戸川 点 教授
上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程中退。以後31年間都立高校教員、管理職を勤める。2016年より拓殖大学国際学部教授。
  • 先生はどのような大学生活を送っていましたか。
  • 史学科に入ったのですが、そこで出会った地方出身の友人たちの学識の深さに圧倒されました。彼らは高校時代にシモーユ・ベーヌやキルケゴールなんかを読んでいて熱く哲学論議などをしていました。それまで私は好きな日本史関係の本は多少読んでいても受験勉強しかしていなかったのでかなりカルチャーショックを受けました。1年生の頃は彼らの下宿に遊びに行ってよく泊めてもらいました。2,3人で4畳半の下宿に泊まって夜を徹していろいろ語り合ったりしていました。

    サークルは史学科内のサークルで日本中世史研究会に入りました。ここでは論文の輪読や研究史の整理など大学の正規の授業以外に先輩たちから歴史学のノウハウをずいぶんと学ばせてもらいました。
  • その後、大学院へ進学されたのですね。
  • 学部3年で所属したゼミは大変厳しいゼミで、徒弟制度を取っているようなゼミでした。学部の頃から講義がある、無しに関わらず基本的に毎日研究室に顔を出し、研究室の文献や資・史料の整理などをしていました。私自身、将来歴史学を生かして生活していきたいと考えていたので、そういう厳しさは苦ではありませんでしたが。結局そのままマスターからドクターまで進み、その後東京都の教員になりました。
  • 教員になってからの生活はどうだったのですか。
  • 当時は高校でも週1日研修日という研究することができる日があったので、そういった時間を利用して研究を続けていました。それから学会や研究会活動は続けていたのでそこでの刺激をモチベーションに論文などを書いたりしていました。

    一方、授業や教育にも魅力を感じていました。教育は人間を育てる仕事ですから決して適当にやれる仕事ではありません。やりがいと同時に重大な責任があります。授業も部活もこちらが頑張れば確実に生徒の反応もよくなります。それがうれしくて未熟ながらもがんばりました。当時の生徒がこれを読んだら「ほんとかよ」とツッコむかもしれませんが、私自身は一生懸命やったつもりです(笑)。

    当時の私にとって研究と仕事をどうバランスを取り、きちんと両立させるかは大変な課題でした。そうした中で拓殖大学で教員養成に携われるかもしれないというチャンスがあり、採用していただくことになりました。
  • 最後に学生へのメッセージをお願いいたします。
  • 教職課程を取っている学生としか会えないのですが、もっともっと知的好奇心の幅を広げて、専門性も深めてほしいと思います。拓殖大学は留学生も多く、様々な研修機会も用意されていて学ぼうと思えばいくらでも学べるすばらしい環境だと思います。使い倒さないともったいないと思います。

    また、運動部の学生で教職を目指す人は、ぜひもっと勉強してください。部活の顧問をやりたくて教職を目指す人が多いのですが、教員になる以上、部活指導だけでは困ります。きちんとした授業ができなければ教員とは言えません。部活と勉強、両立は難しいと思いますが教員を志す以上、頑張ってください。そのための応援はしますので一緒にがんばりましょう。
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徳原 悟 教授

どうしたら借りたお金を返しながら
貧困を削減していけるか

徳原 悟 教授


徳原 悟 教授
日本大学大学院経済学研究科で国際金融を研究、1999年3月に博士後期課程を修了。2000年に拓殖大学国際開発研究所の専任研究員に。2004年から国際学部へ。
  • 大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 大学時代はあまり勉強をしませんでした。肉体労働のアルバイトに専念していました。アルバイトのなかで、いろいろな人と出会うことができたことや、社会・経済の動きを実感したことは、貴重な経験であったと思っています。大学生の頃に勉強の面で唯一したことは、経済学の古典を読むことでした。幸運にも古典を翻訳した先生や第一級の研究者が多くいましたので、ほぼマンツーマンで手ほどきを受けました。姿、形は違いますが現在と似たような経済・社会の問題について、昔の人はどのように考えていたのかを考えるには最高のテキストです。学生ほど時間に余裕がある時期はありません。その時期にゆっくりと古典を紐解くことを皆さんにもお勧めします。
  • なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか?
  • アルバイトでの経験や古典を読むことで、現在の経済問題への関心が高まり、もっといろいろなことを知りたいと思うようになりました。これが大学院進学を決めた理由です。「知りたい」という欲求は、いまでも研究を行う上での大きな原動力になっています。大学生時代の頃の日本は、バブルで社会全体が明るく活気に満ちた時代でした。いまと違って就職も容易な時期でした。また、大学院に進学する人の数もそれほど多くない時期でしたので、不安もありました。しかし、結局は大学院に進学するという決断をしました。決断した後は、積極的に取り組むことだけです。みなさんもこれからいろいろな決断をしなければならなくなりますが、重要なのは決断した後にどれだけ真剣になれるかだと思います。そこを大切にして欲しいと思います。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由は何ですか?
  • 大学院在学中に、ひょんなことから、「東アジア長期経済統計」をつくるプロジェクトに出くわしました。大学院に通いながら、茗荷谷の研究所で昼夜を問わず作業に参加していました。そこで現在、拓殖大学の学長であり、当時、研究を指揮していた渡辺利夫先生からお誘いをいただきました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • 私の研究テーマは、東アジア諸国の経済発展に金融がどんな役割を果たしてきたのかを明らかにすることです。道路、港、空港、発電所、学校だけでなく、医療や保健などのプロジェクトを行うためには、お金がかかります。つまり、貧困から逃れるためには、どうしてもお金がいります。しかし、開発途上国にはお金がありません。だから、外国からお金を借りてくることになりますが、借りたお金は返さなければなりません。返せなければ借りることもできなくなります。どうしたら、借りたお金を返しながら貧困を削減していくかを考えなければなりません。外国との関係を考えながら、お金という面から開発途上国の貧困脱出を考えています。
  • 学部ではどんな科目を担当していますか?
  • 学部の基本科目の1つである経済学を担当しています。また、2年次から選択するコースの基本科目を担当しています。国際協力コースの「国際協力論」、国際経済コースの「開発経済学」を中心に授業を担当しています。これらの科目は2年生以降の専門研究の基礎となる科目です。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは?
  • わたしの専門は経済ですが、経済だけでなく社会、文化、歴史、宗教、民族などいろいろな分野に関心をもってもらいたいと願っています。専門研究になると、どうも自分の分野だけに閉じこもってしまいがちになります。しかし、現実の社会は複雑です。この複雑さに対応できるような人間力を鍛えて欲しいと思います。そのためには、いろいろなことに関心をもち、多面的に考えられる力を身につけていく必要があります。これは、自分の可能性を広げていくことにもなります。食わず嫌いにはくれぐれもご注意を。
  • 学生の皆さんに何か一言を。
  • わたしの好きな経済学者がこんなことを言っています。「静かにいくものは健やかにいく、健やかにいくものは遠くまでいく」。この言葉は、勉強や人生においても一面の真理を捉えていると思います。少し立ち止まって、この言葉を考えてみてください。多くの可能性を秘めているみなさんに、この言葉を贈ります。
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内藤 嘉昭 教授

観光の理論的な部分と歴史的な部分に関心

内藤 嘉昭 教授


内藤 嘉昭 教授
1982年慶應義塾大学卒業。外務省勤務を経て1997年奈良県立商科大学専任講師、2001年駿河台大学助教授、2008年より拓殖大学国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 恥ずかしい話、あまり学校に行ってなかったです。今からみると相当自堕落でよく卒業できたと思います。ただ一点自己弁護しておくと、ゼミだけはしっかりやった記憶があります。それと読書が好きなので濫読で本をよく読みました。石川忠雄先生という中国研究のゼミで、意外にも当初は中国近代史を勉強していたのです。ゼミはかなり厳しく合宿は毎年箱根で3泊くらい。睡眠時間連日2-3時間で、それこそ息つく暇もないくらい勉強させられました。学問的な基礎はそこで習得したと思っています。部活は山登りをやっていました。酒もよく飲みましたし、今も交流があるいい友人ができました。バイトは先輩からの紹介で家庭教師をやりました。結構いい仕事だと思いましたね。なお、3年終了時にイギリスに1年ほど留学(遊学)しました。パブへ毎晩ビールを飲みにいき、失敗談には事欠きません。しかしながら、学生時代は楽しかったです。相当はめをはずしても許されてしまうおおらかさが当時はあったように思います。
  • 卒業後はどのような経路をたどりましたか。
  • 私の場合、決してほめられたプロフィールではなく、むしろこうなってはいけないという、「反面教師」という意味で考えていただけたらと思います。と申しますのも、経歴自体「転石苔を生ぜず」で、民間企業、地方公務員、国家公務員、さらに大学教員としても公立大学と私立大学を本校就任以前に経験しているように、ピンボールのようにあちこち動きながら今ここにいる次第です。在職期間は長短あり一概にはいえませんが、おおざっぱに割って平均するとそれぞれ約4年くらいでしょうか。しかし、私に最も強い影響を与えたのは、外務省に在職(1988-91)していたときのことです。トロント(カナダ)に駐在しており、そこで今専攻している観光学と出会いました。カナダは観光が盛んな国ですから、そういう土壌ゆえに観光研究も盛んです。
  • 観光の道に入ったのはいつからですか。
  • この道に入るようになったのは、前述のとおりカナダでの経験でした。向こうでは文部省や国際交流基金の出先のような仕事をしており、学者とも接する機会が多かったので、そこで観光学という耳慣れない学問領域を知りました。旅行好きの私にぴったりではないかと直感しました。帰国後新聞広告で観光学を学べる大学院があると知り、社会人で大学院に入り直しました。結婚していたし、後がないので、ここからの勉強ぶりは凄まじく(自分で言うのもおこがましいですが)、休みは一切なくひたすら勉強しました。人間、多分背水の陣を敷くと自分でも信じられないことができるのかもしれません。方法論は学部時代のゼミで鍛えていたので、大学院では特に目新しさは覚えませんでした。今振り返ると、学部時代の恩師石川先生にやはり感謝しています。今の自分があるのは、間違いなく、自堕落な学生時代を送りつつも、ゼミだけはしっかりやった結果と思います。
  • 拓殖大学へはどのようにして・・・。
  • 昨年の夏にネットで公募を見つけて応募しました。伝手も何もなかったので、多分だめだろうと思っていました。ですから、任用決定と知ったときは驚きました。これを縁というのかもしれません。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • 観光の理論的な部分と歴史的な部分に興味があります。理論は抽象的な事柄で、ふつうの学生は敬遠するかもしれません。しかし、歴史的なものに関しては、過去の旅と現代とを対比してみると色々似ているところがあって面白く、「人間やっていることはあんまり変わらないな」とほっとしたりもします。講義の中でも具体例を引きつつ、そんな面白みを出してみたいと考えています。
  • 大学生活はどのように過ごせばよいですか。
  • 大学は基本的に勉強するところですから、むろん勉強が主になりましょう(前述のような学生時代を送った私がいうのもおこがましい限りですが)。しかし、経験的に今振り返ってみると、それ以外の遊びや交友面のほうにむしろ多く学ぶところがあったように思えます。大学はほぼ同じ目的を持った同世代の仲間が多く集まるところで、一生のうちこれほど潤沢、贅沢な時間が許容されている時代はありません。勉強に限らず、そこで何らかの付加価値をつけておくと、即効性はなくとも後でそれがじわじわ自分の役に立ってくるような気がします。逆に小手先のすぐに役立つハウツーは、一見すぐに役立つようにみえますが、逆にすぐに役立たなくなる、というのが私の持論です。大学というところは野放図なくらい自由な空間と時間が、特権的に、しかも二十歳前後という最も多感な時期に与えられているのですから、その中で他でもない「自分」を色々に試しつつ形成する場だと思います。色々なスタイルがあっていいでしょうし、それは顔かたちが違うように人それぞれでしょう。まあ、しかし、青春時代の真ん中は道に迷っているばかりで、なかなかよくわからないでしょうけど。
  • これまでの豊富な経験から何か一言を。
  • 「反面教師」ですからほとんど皆さんの参考にならないわけですが、一点経験的に最後に言わしていただきましょう。私は不真面目な学生であまり勉強しませんでしたから、社会に出てから結構苦労しました。その分、組織の中で色々なことを一つ一つ、失敗を重ねながら経験的に学習していきましたし、今でもそうです。私にとっては社会こそ最良の大学であり、丹羽宇一郎(伊藤忠会長)の著書のとおり『人は仕事で磨かれる』というのが私の信念です。大学は仕事で自分を磨くまでの助走期間と割り切り、色々と試してみるのもいいかもしれません。結局、大学とはこうだという固定的なものではなく、自分なりにつくっていくものではないでしょうか。ちょうどパソコンのように、自分の使い勝手のいいように自分にあったかたちで自然につくられていく、そんな感じかもしれませんね。
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専門(興味・才能)+ データサイエンスで開拓精神を養おう

中村真帆 准教授

中村 真帆 准教授
信州大学大学院工学系研究科修了、博士(工学)。情報通信研究機構、学芸大学、電気通信大学、電子航法研究所でプロジェクト研究員、学芸大学、法政大学で非常勤講師を経て2023年に国際学部。
  • なぜ研究者として大学院進学を志すようになったのですか?
  • 私は家庭の都合で卒業後すぐには大学院に進めなかったのですが、理工学系の研究に憧れがあり、何かしら研究というものに携われる仕事がないか探していたところ、通信総合研究所(現:情報通信研究機構)というところで電離圏観測データの整理作業の公募を見つけ、そこで宇宙地球環境計測を行なっている部署に採用されたのが研究への関わりの始まりです。そこで長い歴史を持つレーダによる電離圏観測や宇宙天気という学問に出会い、長期的な観測データの変動や解析手法を勉強するうちに自然科学研究の面白さと奥深さを知りました。
    周囲には学位を持った研究者ばかりでしたので、自分もやはり学位を取りたいとの思いが育ち、当時e-learningを利用して学位を取ることが可能になった信州大学大学院の修士課程に進むことを職場の先生方に相談しました。たまたま上司に信州大学の先生とお知り合いの方がおられたので紹介していただき、その職場で働き続けながら修士を取得することができました。修士として行う研究は私にとって楽しかったので、そのまま社会人学生として博士課程に進み、ニューラルネットワークを電離圏嵐と呼ばれる電離圏の異常変動の予測に応用する研究に取り組み、無事に博士の学位も取得することができました。契約的な立場で働きながら学位を取得することを許し、応援してくれた当時の研究室の先生達や先輩達に深く感謝しています。
  • 拓殖大学に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 学位を取得すると正式に研究者としての職に応募することができるようになるのですが、研究所内で当時募集のあった時刻標準(日本標準時の生成と維持を行う)の部署から誘いがあり、無事に採用され、そこで日本の衛星測位システムである準天頂衛星初号機のプロジェクトに関わることになりました。衛星測位においても電離圏の変動が時刻比較技術や測位誤差に大きく影響するのです。
    準天頂衛星のプロジェクト終了後は、学芸大学で大規模な津波が地球磁気圏や電離圏に与える影響について、電気通信大学では狭帯域レーダーへの認識技術の応用開発、電子航法研究所では測位衛星を用いた航空航法への電離圏変動の影響を調べるプロジェクトなどに、それぞれポスドクとして参加させていただきました。
  • なぜ拓殖大学国際学部で教員・研究者の道を志したのですか?
  • ポスドクとして色々な研究プロジェクトに従事させていただく傍ら、学芸大学と法政大学で非常勤講師のお誘いを受けました。本業の研究以外に週に1コマ程度の授業を受け持ってきたのですが、何年か経験するうちに学生さんに学問の面白さを伝える講師としての仕事が意外と自分に向いていると感じるようになりました。人生をかけて一つの研究テーマを極めていく専門的な研究職も大変魅力的なのですが、学生さんと共に毎年基本に立ち戻り学び直す教員という職業は、何年同じ授業を受け持っていても毎回新しい発見や驚きがあることが楽しく、そのことによって研究への視野も広がり新しい課題や興味の発見に繋がることに気がつきました。
    このような体験を積み重ねているうちに大学で学生の皆さんと共に学びながら研究を進めるスタイルが自分の求める研究生活の理想形と感じ、大学教員を目指すようになりました。
    また、様々なプロジェクトに携わる日々の中で、本業の研究内容に関わらずずっと興味を持ち続けていたのがデータサイエンスに関わる技術でした。特にここ10年ほどのデータサイエンスの盛り上がりにはご存じのとおり大きな進展があり、本格的にこの分野に取り組んでみたいと考えていたところ、本学の国際学部でもデータサイエンスの授業を立ち上げたいということで公募が出たため、最新動向を学びながらの教育に挑戦してみようと思いました。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • 今年はクラスゼミ、2年ゼミ、コンピュータ演習と大学院授業である定性分析を担当しています。2年ゼミでは「データサイエンスへの招待」ということで少数の学生さんと最近のデータサイエンスの話題と技術を国際学部の扱う課題に結びつける可能性について勉強しています。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • 電離圏変動を中心とした宇宙天気分野(太陽地球環境の変動予測等)については理工学的にもデータサイエンスの応用という側面からも引き続き興味を持っています。
    またAIやデータサイエンス、DXなどの新しい技術を国際学部のもつ人文学や社会学的課題にも結びつけられる標準的なスキルとしての教育の可能性についても勉強していきたいと思っています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 拓殖大学の国際学部は多くの留学生との交流に恵まれており、国際的な視点を育みながら、日本の抱える多くの課題やこれからの日本のあり方についても真正面から取り組むことが可能な学部であると感じています。
    今や情報技術が大進化を遂げ、新型コロナ騒動も経て様々な生き方が可能となっています。現代は学びの機会も増えており、一度社会に出てからの学び直し(リスキリング)も含めて、文理を問わず専門が二つも三つもあるような人が当たり前になっていくのではと感じています。
    特に皆さんが大学に入って様々な分野の専門家として学びを深めていくにあたり、これからはデータサイエンスの可能性や動向と同時にその問題点や制限も理解し、根本的なあり方を模索しながらも使いこなせる人材が求められる時代だとも思います。
    今はまだ何もできないし何をしたいかもはっきりとしていないという不安が大きい方も多いと思いますが、大変化の時代にありながら自分の興味や才能(得意なこと)を見失わず、新しい時代の開拓に挑戦の気概をもつ学生さん達との出会いを楽しみにしています。
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西口 茂樹 教授

「心」に着目したコーチングで学生の能力を引き出す

西口 茂樹 教授


西口 茂樹 教授
1993年日本体育大学大学院修了。1994年より拓殖大学に奉職。学生主事、政経学部非常勤講師、体育振興部長を兼務し、2013年より拓殖大学国際学部教授に就任。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 私は、レスリングで世界一になることを目標に、日々厳しいトレーニングに励んでおりました。おかげで、大学4年生時には、世界で3位になることができました。

    しかし、様々な見聞を広げたいと思い、大学2年生のときから、アルバイトで体育の家庭教師を始めました。その中の出会いで、下半身不随になったおばあさんのリハビリを依頼されました。このおばあさんのお世話は就業時から大学卒業まで続けることができ、人のために役立てることの喜びを知ることができました。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ研究者を志すようになったのですか?
  • 学生時代にハンガリーに留学しました。ハンガリー留学で体育に関する自分自身の常識が、日本の常識とはかけ離れていることに衝撃を受けました。体育の楽しさ、必要性を伝えていきたいと思い大学院に進みました。
  • ハンガリーと日本では、体育に関する常識について、具体的にどんな点が異なっていたのでしょうか。
  • ハンガリーの体育は、主に学校体育ではなく社会体育が主流です。たとえば、レスリング競技では、クラブチームが各地にあり、多くの子供たちが気軽に健康体育として参加して取り組むことが出来ます。

    そして、オリンピックを狙うような選手も一緒にトレーニングをしており、生涯スポーツと競技スポーツとが共存するシステムが成立しています。このことはレスリング競技だけでなくその他の競技についても同様なシステムになっています。

    日本では指導者と選手は、多くは師弟関係ですが、ハンガリーでは対等な関係になっています。日本のスポーツは教育的要素が大部分を占めますが、ハンガリーでは純粋に楽しむものとして認識されています。このようにいくつかの点で、両国の間には違いがみられました。
  • 先ほどアルバイトでリハビリの指導を経験されたとも話されましたが、アルバイトでの経験は大学で教職に就くようになったことと、なにか関連あるいは影響があったのでしょうか。
  • アルバイトでリハビリの指導をしたことは、人間にとって元気で活動できる喜びや有難さを体感し、健康の保持増進をはかることの大切さを痛感しました。人間にとって生きる喜びとは何か、健康の大切さとは何かを考えるきっかけとなり、是非、学生の皆さんに伝えていきたいと思いました。
  • 今お話いただいたこと以外に、学生時代に人生の転機となるような出来事があればお答えください。
  • 私は、レスリング競技を通じて、旧ソビエト連邦など、様々な国を訪問することが出来ました。現地では、人々と共に生活することによって、日本の文化とは違う多くのことを学びました。
  • 西口先生が拓殖大学国際学部に赴任することになった経緯などについてお話いただけますか?
  • 今年度より、2016年リオデジャネイロオリンピックのレスリング競技の強化委員長を拝命しました。

    グローバルな見地から国際学部の学生の皆さんのお役に立てればと思い着任させていただきました。
  • 西口先生にとっての「グローバルな見地」とは、具体的にどのようなものの見方をすることでしょうか。
  • 人間は、自分の考え方に固執する傾向になりがちです。しかし、物事は同じ観点からではなく、様々な観点から見て、判断する柔軟な視野を持つことが重要です。私にとってグローバルとは、まずこの柔軟な視野をもてるようになるということです。そのためには、学生の皆さんが様々なことに幅広くチャレンジできるようサポートしていきたいと思っています。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマをお答えください。
  • レスリング競技で、いままで培ってきたコーチ学を様々な学生に適用できるように創意工夫し、指導していきたいです。また、スポーツの世界において、よく使われている『心技体』という言葉の中で、『心』という一番見えにくく、強化の難しいところに着目しています。『心』に着目し本人のパフォーマンス能力をいかに出し切るかを、コーチ学の立場から、研究していきたいと思っています。
  • 「心」に着目した指導、研究を行う際の難しさ、とはどんなことでしょうか。
  • 今のスポーツは、成果主義になりがちです。そのため指導者は、目先の成果の為、技術、体力の強化を重点に指導します。しかし、実際には、成果は得られず、大きなストレスが生じてきます。

    現在の私の関心領域である「心」の分野は、心理学的な立場でケアをしています。今後起こりうる様々な困難に対応していくためには、自分自身で解決していく能力を身につけていく必要があると考えます。

    「心」には見えない部分が多くあり、個人の心理状態を常に理解し把握することは、非常に難しく、大きな課題です。
  • 最後に国際学部の学生、受験生へのメッセージをお願いいたします。
  • 学生の皆さんに伝えたいことがあります。まず大学に入学したら、目的・目標を持とう。それが決まれば、お金を貯めよう。そして、外国に留学しよう。

    答えはそれぞれに違うでしょうが、自分自身が答えを出すことができると信じています。間違いや失敗があるかもしれませんが、20年後には必ず笑顔になれると思います。しかし、何もしなかったら20年後には後悔だけが残るでしょう。人生は一度きりです。私だったら、笑顔を選択します。
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野村 進 教授

フリーランスのノンフィクションライターとしても活躍

野村 進 教授


野村 進 教授
上智大学外国語学部英語学科中退。1997年日本ペンクラブ常任委員。都立大学、上智大学の非常勤講師を経て、2005年から国際学部へ。2004年から朝日新聞書評委員も。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 大学1年のときから、同級生たちと通称「アジア研究会」を開いていました。アジアに関する本を各自が選んで、毎回一人が発表し、それについての質疑応答をする会です。1970年代後半の当時は、アジアに対する関心が現在とは比べものにならないくらい低く、学生たちの目はもっぱら欧米に向けられていました。私たちは英語学科にいたのですが、そんな風潮に反発する"ひねくれ者"が集まっていたような気がします。 そして、1978年からほぼ2年間、フィリピンに留学しました。1年間はアテネオ・デ・マニラ大学で学び、あとの1年間は取材をしたり、フィリピン各地を旅行したりしていました。
    私は高校時代から、ベースボールマガジン社の『ボクシングマガジン』という月刊誌の編集部でアルバイトをしており、フィリピンに留学してからも、日本人選手が出場したボクシングの試合をレポートしたり、日本のリングで戦った世界チャンピオンたちのその後について長めの記事を書いたりしていました。
    その後、いくつかの偶然が重なった結果、フィリピンで反政府武装闘争を続けるフィリピン共産党の軍事組織・新人民軍(NPA)の取材をする機会を得て、ルソン島北部の山岳地帯で約5ヶ月間、従軍取材をしました。帰国後、大学のゼミの先生に紹介してもらった出版社からデビュー作の『フィリピン新人民軍従軍記』(講談社+α文庫)を発表し、そのままフリーランスのノンフィクションライターになったわけです。
    考えてみると、相当ヘンな学生でしたね(笑)。
  • ノンフィクションライターとは、どういう仕事なのですか。
  • 自分が興味を持ったテーマを取材して、新聞や雑誌に発表したり、単行本にまとめたりする仕事です。最近書いたテーマは、100年以上続いている日本の長寿企業についてです。世界で一番古い会社は、実はここ日本にあるんですよ。創業はいつだと思いますか?なんと飛鳥時代です。1400年以上も続いているわけです。ほかにも、みなさんが毎日つかっている携帯電話のあちこちに、100年以上続いている日本の老舗の技術が詰め込まれています。こういうことを調べて書くのが、ノンフィクションライターの仕事です。おもしろそうでしょう?
  • ジャーナリストとは違うのですか。
  • 同じです。ジャーナリストには、新聞記者、編集者、テレビの報道記者やキャスターなどさまざまなジャンルがありますが、ノンフィクションライターもその中のひとつです。新聞記者や出版社の編集者からノンフィクションライターになった人も、けっこういます。立花隆さん、柳田邦男さん、沢木耕太郎さんといった方々が、私の先輩にあたります。
  • そんな経歴を持つ先生が、どうして拓殖大学国際学部で教えることになったのですか。
  • 私は以前、渡辺利夫学長(当時は拓殖大学国際開発学部長)とご一緒に、読売新聞の読書委員という、本の書評を書く委員をしていました。私の専門もアジア太平洋地域なので、渡辺先生が主催されている「アジア塾」に講師として呼ばれたりもしていました。そうしたご縁で、2004年にこの学部にお招きいただいたわけです。自分がまさか大学の先生になるとは思ってもみなかったのですが、実際に学生のみなさんと接するようになって、この学部に来て本当によかったと思っています。
  • 現在、関心を持っておられるテーマは何ですか。
  • 私は、在日韓国・朝鮮人をはじめとする在日外国人に、ずっと関心を抱いてきました。日本には現在200万人以上の外国人が暮らしています。在日韓国・朝鮮人や在日中国人は、外見では日本人と見分けがつきにくいので気づかなかったかもしれませんが、あなたの学校にもきっといたにちがいないし、いまも毎日のように在日外国人と出会っているはずです。そういう人たちとわれわれ日本人とが、どのようにしてつきあい、いかに良い関係をきづいていくか。これが、現在も取り組んでいるテーマです。
  • いまもノンフィクションライターとしてのお仕事を続けておられるそうですが、大学教授のお仕事とどのように両立されているのですか。
  • 大学に閉じこもっているだけでは、世の中のことはわからない、とよく言われます。一方、私が尊敬するベテラン・ジャーナリストに言わせると、「ジャーナリストも案外、世間知らず」だそうです。たぶん、つきあう人が取材相手やメディア関係者に限られてしまう傾向があるからでしょう。もしそうだとするなら、私は両方に風穴をあけて、自分がいる場所ばかりではなく自分自身をも、風通しをもっとよくしたいと考えています。ふたつの仕事を両立させるのは、率直に言って大変で、からだが2つあればいいのにと思うこともありますが、非常に面白みがあり、充実した毎日を送っています。
  • 国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは何でしょうか。
  • 先生と直接話したり、授業を前列のほうで受けたりするのは、なんだか照れくさいものです。私もそうでしたから、よくわかります。でも、私の授業は最前列で受け、どんどん話しかけてください。私は、これからの長い人生をどのように生きるか、そのことをじっくりと考えて答えを出そうとするのが、大学生活の最大の目的だと考えています。そのために少しでも役に立ちそうなことなら、何でも伝えようとしているつもりです。だから、アグレッシブに授業に参加してください。大学の講義というのは、先生と学生がくんずほぐれつしながらつくりだしていくものだからです。

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原嶋 洋平 教授

早くから地球環境問題に着目して活躍

原嶋 洋平 教授


原嶋 洋平 教授
名古屋大学大学院修了。博士(学術)。地球環境戦略研究機関(IGES)主任研究員を経て、2000年から拓殖大学に。国際協力機構(JICA)環境社会配慮審査会委員、文京区リサイクル清掃審議会委員、神奈川県総合計画審議会特別委員、神奈川県立保健福祉大学非常勤講師、環境省環境調査研修所講師、国立環境研究所客員研究員、山北町環境審議会委員などを歴任。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • これと言った特徴のない大学生活を過ごしました。特に勉強に熱心な学生というわけではありませんでした。1年生の時はちょっとサボっていましたが、2年生になってからは授業には真面目に出席していました。したがって、成績もさほど悪いほうではなかったです。
  • 先生は環境問題がご専門ですが、研究を始めた当時の日本では、まだ環境問題に対する関心が薄かったのではないですか?
  • 地球環境政策の勉強を始めたのは、名古屋大学大学院国際開発研究科にいたころからです。当時は、まだまだ地球環境問題に対する社会の関心は薄く、日本では文献もほとんどありませんでした。今のように書店に環境問題の本は溢れてはいませんでした。大学院の指導教官や茨城県つくば市にある国立環境研究所(NIES)の先生方にご指導戴いて、地球環境問題の全般を学ぶともに、試行錯誤しながら、自分自身の研究テーマを絞り込んでいきました。このときは、よく勉強しましたよ。
  • 先生は拓殖大学に来られる前に、随分多方面で活躍されていましたね。
  • 名古屋大学大学院国際開発研究科で「東アジア諸国における環境政策の発展過程に関する比較研究」という研究で博士号を取得した後、国連大学高等研究所(UNU/IAS)に一時在籍していました。その後、神奈川県葉山町にある地球環境戦略研究機関(IGES)という研究所の設立のお手伝いをさせて戴きました。ちょうど地球温暖化防止の京都会議が開催され、京都議定書が採択された頃です。仕事で、京都の会場にも何度か足を運びました。中国や韓国などアジアの国々にもしばしば出かけることがありました。でも、ちょっと忙しかったですね。そうこうしているうちに、ご縁があって、拓殖大学の国際(開発)学部に赴任することになりました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか?
  • 経済成長が環境対策の制度にどういう影響を及ぼしてきたかということを専門的に研究しています。つまり、「経済成長と環境対策の制度変化の関係」です。経済成長が始まると、現実問題として環境悪化は避けられないのですが、必ずしも経済成長とともに環境が悪化する一方ではありません。余裕が出てくると住民も環境について考え始め、国や企業も動かざるを得なくなります。一定の段階を経るとさまざまな要素が加わって、環境と経済成長は両立するような段階がありうるだろうと考えています。
  • 環境問題の解決には何が重要ですか?
  • 安全保障や教育などと並び、環境が優先順位の高い政治課題となることは間違いないでしょう。この問題を疎かにすれば、国とか地方、企業そして大学も時代から取り残される、もっと言えば生き残れないだろうと感じます。そうしたなかでどう環境問題を解決していくべきなのか、私は環境保全活動に対し、何らかのメリットとか利益を得られる仕組みを社会全体でつくっていくことが重要だと考えます。環境を守る活動をしろと強制しても、なかなか続くものではない。仕事や生活のなかにどう定着させるかが大事なのです。これが地球温暖化対策を含め、経済と環境を両立させる社会づくりのカギになっていくとみています。
  • これから環境問題を学びたいという学生へ何かメッセージはありますか?
  • 環境問題は範囲が広いうえに内容も複雑で、かなりの専門家でも全体像を把握するのは、事実上難しいといって過言ではありません。環境に関心がある学生さんには、こうした環境問題の特性をよく知ったうえで、ご自分の好みや能力にあったテーマを選んで、環境の勉強に取り組んでみてください。環境問題では、経済との関係もとても重要ですので、この点をいつも頭に入れておくべきでしょう。
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福田 惠子 教授

日本文化や日本語への理解を深め、豊かな人生を

福田 惠子 教授


福田 惠子 教授
1994年に東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修了後、拓殖大学留学生別科非常勤講師に。2002年から国際開発学部へ。
  • 先生はどのような大学生活を送っていましたか。
  • はっきりした目的もなく大学に入ってしまい、1、2年生はけっこう憂鬱な日々を送っていました。しかし、ある日、友人のノートを見て、同じ1時間半なのに、友人は私の数倍、濃密な時間を過ごしていることに気づきました。私がたいしたノートもとらず適当に過ごしていたこの時間に、友人は多くのことを吸収していました。これをきっかけに少しずつ貪欲になっていった気がします。所属する学科で取得できる資格(中、高等学校の国語の免許、図書館司書、図書館司書教諭の免許)の全てを取得することができました。英会話学校も週に2日、アルバイトで得たお金で通っていましたね。現在、その資格を使った仕事をしているわけではありませんが、その資格を得る過程で積んだ経験は、私の人生を豊かにしてくれています。
  • 日本語教師になられたきっかけは何ですか?
  • 大学3年生頃から、勉強してきたことが活かせる職業は何かを考えるようになり、次第に日本語教師に興味を持つようになりました。しかし、当時、日本語教師という職業はまだあまり知られておらず、どのようになるのかもよくわかりませんでした。そこで、出版社に就職し、働きながらも日本語教師に関する情報にはいつもアンテナを張っていました。何か目標があると、自分のアンテナは敏感に反応することができるんですね。拓殖大学の日本語教師養成講座の公募を新聞の下段から見つけたのも、アンテナが反応したからでした。
  • 社会人から大学院に戻ったのですね。
  • 働きながら、拓殖大学の日本語教師養成講座に2年間通い、修了と同時に、拓殖大学の日本語センターで日本語を教えないかというお誘いがあり、中国帰国者の方々に日本語を教える機会に恵まれました。しかし、教えながら日本語の難しさを痛感するようになり、一大決心をして、大学院受験を志し、本格的に日本語学の勉強を始めました。修士修了と同時に、拓殖大学の留学生別科での非常勤講師、拓殖大学国際学部への専任教員へと道が開けました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • 私のテーマは「日本」です。大学院の博士前期課程では「日本専攻、言語文化コース」でした。グローバル化の波が押し寄せ、日本に元来ある尊いものが失われようとしている現在、今一度立ち止まり、日本文化や日本語への理解を深め、豊かな人生を送りたいですね。
  • どのような科目をご担当ですか?
  • 現在担当している「言語と文化」では他言語と比べながら日本語の特徴を明らかにし、言語を通して見える文化についても触れています。また、儒教の影響を受けた武士道などについても理解を深め、当時の人々の価値観に思いを巡らし、学生の今後の人生に活かしてもらいたいと思っています。
  • 儒教は今の時代にも役立ちますか?
  • 儒教の徳目の中に「仁」があります。「仁」とは思いやる心ですね。現代人はこれが欠けてしまっていると思います。負け組、勝ち組というような言葉がはびこっています。弱いものを思いやる、小動物を思いやる、自然を思いやる・・・。自己中心的な考え方をやめ、思いやる心を育んでいけば、平和な世界が訪れると信じ、教育活動を続けています。
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水野 晶子 教授

英語を楽しく多角的に学べるように

水野 晶子 教授


水野 晶子 教授
大学卒業後の2年半は、KDD(現在のKDDI)に勤務し、国際電話局でオペレーター。その後、イリノイ大学の大学院で学び、帰国後は様々な大学(千葉大学、東京外国語大学、順天堂大学等)で非常勤講師。2004年から国際学部へ。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • もともと英語が大好きだったので、好きな英語をいろいろな角度で学べた、大学時代の勉強は、とても楽しかったです。東京外国語大学では、河野一郎先生という英文学者の先生の翻訳ゼミに所属し、和英、英和の両方向からの、翻訳を厳しく訓練されました。また、4年生の時には、音声学の竹林滋先生の研究室で、教務補佐という仕事をしました。課外活動は、古典ギター部に入りました。でも、驚くほど下手で、部のコンサートで、グリーンスリーブスを単音で、初心者集団の一員として、弾いたのを思い出します。演奏面では、足を引っ張っていましたが、会計として、部には、少し貢献できたかもしれません。アルバイトは、もっぱら家庭教師をしていました。中には、生徒さんが友達も連れてきて、小グループで、教えたこともあります。英会話のクラスでは、スキットを作って演じてもらったり、英文法はプリントをやったり、今の私と、根本的には、あまり変わっていないかもしれません!とにかく、いつも楽しかったのが、印象に残っています。
  • 卒業後はKDD(現在のKDDI)へ就職されましたね。
  • 私の場合、高校時代、1年間アメリカに留学しておりましたし、大学では、英語を専攻した関係もあり、もっぱら、英語を使う仕事ということで、KDDを選び、受験しました。私の母が、KDDのオペレーターであったことも影響しているかもしれません。
  • それから一転して米国のイリノイ大学へ行かれたわけですが・・・
  • イリノイ大学の大学院で、教育学修士を目指して学んでいたときの、カウンセリングのコースを担当していた先生が、それは優しく、上品な、初老の女性の方で、授業中に何気なく「47歳になって、私は大学院に入りました。」と、おっしゃっていた一言が、印象に残っていまして、当時は20代後半であった私には、人間いつからだって、その人が何かを成し遂げようと思ったときが転機なのだ、と心に刻みつけたのを、今でも覚えています。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • いろいろな大学に非常勤講師として勤務しているうちに、いつしか10数年が経過し、教育現場での経験も積み、また学問的な業績も蓄積してきました。そんなある日、非常勤講師先の上司の推薦で、応募させていただきました。面接を経て、内定が決まった時の感激は、今でも忘れられません。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • 最終目標は、日本人の自分だからこそ、学習者に伝えられる、苦労して身につけた英語の学習法を、特に音声及びライティング側面を中心に、理論的・実践的にまとめあげることです。わかりにくい文法事項のよりわかりやすい教授法、日本人に発音しにくい発音の効果的な教授法等についても、力を注いで取り組んでいます。また、授業学の面からは、クリエイティブなタスクの導入、あるいは、英語を楽しく多角的に学ぶこと等、日々実践を重ねながら、研究しています。
  • 上記の現在のご関心・ご担当に加えて、過去のものもふくめ専門、研究内容、担当教科について特記するものがあればお答えください。
  • 学会や、研究会で、たびたび、「クリエイティブな授業への試み」「楽しい授業への試み」等、授業の実践報告を行ってきています。また、パラグラフ・ライティングの効果的な教授法を、日英対照研究の側面から、研究を続けてきています。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • とにかく、今からスタートするのだという思いで、つねに前向きに努力を続けていってほしいです。英語は、毎日の努力の積み重ねが非常に大切ですので、日々の努力を怠らないようにしていきましょう。そして、授業の予習を十分にした上で、授業に臨み、疑問点を全てクリアにして、教室をあとにしてください。そして、まだ、記憶がフレッシュな、その日のうちに復習し、授業で学んだことを、固めて、自分のものにしていってください。そして、身につけた英語を使って、自分の人生の可能性を広げていただきたいし、英語の世界を、もっと楽しんでもらいたいです。
  • これまでの質問のほかに、なにか話したいことがあれば自由にお願いします。
  • とにもかくにも、心身元気な限りは、“The sky is the limit!”であります。お互いに、健康に気をつけて、前向きに、勇気をもって、何事にもチャレンジをしていきましょう。
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文 大宇 教授

韓国・朝鮮半島、さらには東アジア全体の
経済発展をもカバー

文 大宇 教授


文 大宇 教授
1984年に韓国で大学卒業後、日本に留学。東京工業大学大学院で博士学位の取得後、1994年から4年間、国際東アジア研究センターで上級研究員として勤務。1998年に拓殖大学に赴任。
  • 先生は韓国で大学時代を過ごしていますが、どのような学生生活を送られていましたか?
  • 当時の韓国は政治、経済、社会が大きく動いた時期でした。大統領が暗殺されたり、民主化を求める多くの学生のデモがあったり。最近「光州5・18」という映画になった光州事件があったのは、私が20歳の時でした。そのような時代に大学生活を過ごしたので、正義、自由、不平等、貧困問題などに自然と関心を持つようになりました。また、工学部の学生でしたが人文社会分野のサークル活動を通じて、開発途上国が抱えている問題についても考えるようになり、その時の関心が今の研究を始めるきっかけとなりました。
  • 大学卒業後は一般の会社に勤めていたこともあるのですか?
  • そうです。少しばかり会社に勤めていましたが、大学時代から考えていた世界経済の仕組み、開発途上国の発展問題などについて更に詳しく勉強したいという思いが消えませんでした。そこで、この分野の研究者を目指して日本の大学院進学を志しました。大学院進学後は、開発途上国が抱えている多様な問題を知るために、アジア地域の経済を中心に開発経済学を学びました。
  • 日本の大学院に入るには、決断が必要だったのでは?
  • 勤めていた会社を20代後半で辞めて、ゼロからのスタートである留学を選ぶということには大きな勇気が必要でした。私にとって大学院への進学は、大きな人生の転機でしたね。来日後は日本語の勉強、専門分野の研究をしながら、学費や生活費のために深夜までアルバイトをしたりして辛い時期もありました。しかし振り返ってみれば、その時の決断があったからこそ自分の夢を叶えられたのだと思います。ですから、スタートが遅くても本当にしたいことを見つけたならば皆さんもチャレンジして欲しいです。
  • 拓殖大学国際(開発)学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • 大学院修了後、しばらくは九州にある「国際東アジア研究センター」で東アジア経済を中心に研究をしていました。いつかは大学で教えたいと思っていたのですが、ある時、大学院時代の恩師である渡辺利夫先生から拓殖大学でアジアや開発途上国を中心に教える新しい学部をつくるので、来ないかと声をかけていただきました。
  • 現在、関心を持たれている研究内容、テーマは何ですか。
  • 私が関心を持っているテーマは、東アジア諸国の経済発展と相互依存関係の深化についてです。東アジア諸国は過去30~40年の間、目覚ましい経済成長を達成しました。今や貿易や投資を通じて東アジア諸国の相互依存関係は急速に進んでいます。以前の東アジア諸国の経済関係は自国と先進国との関係に重点が置かれていました。しかし現在は、東アジア地域内の開発途上国が相互に経済関係を緊密化しながら発展しています。このような新しい相互依存関係を観察し、東アジア諸国の更なる経済発展について考えることが関心テーマです。
  • 大学では韓国、朝鮮半島を中心に教えているのですか?
  • 韓国、朝鮮半島だけでなく、広く東アジア全体をカバーしています。例えば「東アジアの経済発展」の授業では、東アジア諸国の成長過程や成長要因について講義しています。もちろん韓国、朝鮮半島は、私の得意分野です。「朝鮮半島の政治と経済」の授業では、開発途上国の中でももっとも目覚ましい経済成長を達成した韓国経済の歩みや特徴、政治変化について教えています。
  • 韓国、朝鮮半島は東アジア全体とも大いに関係があるのですか?
  • たとえば「朝鮮半島の政治と経済」という科目は、韓国の経済発展を中心に授業を進めていますが、開発途上国がどうすれば豊かになるかということを考える際、韓国のケースは多くの面で参考になります。ですから韓国に関心のある学生のみならず、開発途上国の経済発展に関心のある学生も、ぜひ受講してみて下さい。一緒に考えてみましょう。
  • 大学生活について何か一言、お願いします
  • 学生の頃「20代の君達は無限の可能性をもっている」という言葉をよく聞かされました。当時はその意味がピンと来ませんでしたが、歳を重ねるにつれその意味が分かってくるようになりました。皆さんには、大学生活を思いっきり満喫してほしいと同時に、目標もしっかりもってもらいたい。それは大層な目標じゃなくても構いません。自分が真剣になれる何かをみつけてください。青春は過ぎてみれば短い小春日です。しかし、そこには本当に無限の可能性が眠っています。

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茂木 創 教授

食料・エネルギー問題を中心に国際経済を研究

茂木 創 教授


茂木 創 教授
1997年高崎経済大学卒業後、慶應義塾大学大学院(修士課程・博士課程)に進学。2005年拓殖大学政経学部専任講師、2006年中国社会科学院世界経済政治研究所客員研究員(財務省開発経済学研究派遣研究者)、2008年政経学部准教授。2018年より国際学部に移籍。
  • 拓殖大学国際学部に入られる前はどのような仕事をされていたのですか?
  • 大学院時代に本学の渡辺利夫先生(元総長・学事顧問)のお誘いを受け、2000年から本学が誇る『東アジア長期経済統計』の編纂に関わる機会を得ました。その後、政経学部で公募があり、2005年から拓殖大学政経学部に勤務。以来、本学で研究と教育に関わって参りまして、2018年4月に国際学部に移籍いたしました。
  • なぜ拓殖大学国際学部で教員・研究者の道を志したのですか?
  • 大学教員を志したのは、学生時代、尊敬できる先生に出会えたからです。先生のご好意で、大学1年の秋からゼミを聴講することができ、学部2年生の時には、河上記念財団(現:みずほ学術財団)やヤンマー農機の主催する論文コンテストに運よく入賞することできました。そんなこともあって、『学んだことを社会で生かせたらいいな』という思いが強くなっていっていきました。
    その後、私は慶應義塾大学大学院に進学し、故・大山道広先生から国際経済学や理論経済学を学ぶと同時に、学外ではアジア研究の第一人者、渡辺利夫先生から直接教えを受けることができました。図書館に並ぶ書籍の背表紙に刻まれた、高名な先生の下で勉強や仕事ができたことは、振り返ってみて、研究者としてとても恵まれていたと思います。
    2005年に本学に採用されて以来、長らく政経学部で国際経済を教えて参りましたが、国際学部の先生とは学部創設時から、研究や海外調査をご一緒させていただいておりました。今年度(2018年度)、国際学部に移籍し、古巣に戻ってきたような、なんとも不思議な感覚でおります。
  • 学部ではどのような科目を担当されていますか?
  • クラスゼミと経済発展(東アジアの経済発展)、世界経済、開発と貧困という科目を担当します。
    前職の政経学部では講義科目の他、ゼミナールを担当しておりました。ゼミナールでは、学内外の論文コンテストに入賞者を輩出することができ、学生には恵まれた教員生活を過ごさせていただきました。
    政経学部とは異なり、少人数教育を特徴とする国際学部で、よりきめ細やかな指導ができるのではないかと、胸躍らせております。
  • 現在、関心を持たれている研究テーマをお答えください。
  • 最近では食料問題・エネルギー問題に関心があります。派生して、日本の農業抱える問題を、国際的な視点からどのように解決したらよいか考えています。特定の国や地域はありませんが、日本と関係の深い新興国と呼ばれる成長著しい国々や、これから成長に向かう途上国には時間の許す限り足を運んでいます。
     皆さんは「食料自給率が年々下がっていて問題だ」という話を聞いたことがあるかもしれません。1965年度には73%もあった食料自給率(カロリーベース)は2016年度には38%まで下がってしまいました。グローバル化時代を迎え、私たちを取り巻く食環境は大きく変化しているのは感覚的にもわかると思います。
    ところで、みなさんは群馬県の食料自給率って何パーセントかご存知でしょうか。「群馬県って、ネギやこんにゃく、キャベツ、豚肉…いろいろと作ってそうだから80%から90%ぐらいあるんじゃないの?」そんなイメージありますよね。
    ところが、33%(2015年度)しかないんですよ。驚きませんか?
    「群馬」というイメージと、実際の「数字」の違い。群馬県民の私も大変驚きました。
    もっとも、これはカロリーベースの自給率の話で、生産額ベースでみると100%を超えています。特産品のネギやこんにゃく、キャベツなどのカロリーはとても低いのですが、ブランドという付加価値が付くことで、生産額は割高に表示されるからです。
    数字の意味を考えること、それはとても大事です。確かに、数字には説得力があります。しかし、感覚とズレることが往々にしてあります。世界と日本を行ったり来たりし、数字(データ)と感覚の誤差を考えながら、日本経済をどうしたら生き生きとさせることができるのか、そんなことをテーマに掲げ、日々研究しています。
  • これから国際学部に入学を希望する学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいことは?
  • 拓殖大学はその建学の理念に示されている通り、海外で活躍できる人材の育成に力を注いできた大学です。これまで、多くの先輩が海外で活躍しています。国際学部はその建学の理念を現代に甦らせ、実践している学部だと私は考えています。
    国際学部に関心がある学生の多くは、世界で起こっているさまざまな事柄に興味をもっていることでしょう。国際学部はその名の通り、「世界にいちばん近い学部」です。多くのチャンスが目の前にあります。それを生かして海外に飛び出していってください。私たちが目指すゴールは、机上の空論に満足することではありません。
    グローバリゼーション進む情報化社会に生活している私たち。何不自由することなく毎日を過ごせます。世界各地の情報も、クリックするだけで手に入る、そんな気持ちになってしまいます。しかし、こんな時代だからこそ、「実際に世界を訪ね、自分の足で大地に立ち、五感で世界を感じ取る」という姿勢が大事になっていると私は考えています。「日本からみる世界」は、「世界の中の日本」ではありません。
    日本を出れば、それまで生きてきた自分の世界の常識が全く通じない世界が広がっています。
    初めて耳にする言葉。
    息をのむ絶景。
    むせ返る匂いと躍動する人の波。
    原色の魚や野菜が並ぶマーケット。
    石畳美しい旧市街に薫る珈琲。
    どこか懐かしい屋台のおばさん。
    林立する摩天楼。
    裸足で駆け回るスラムの少年。
    それらは圧倒的で新鮮な衝撃をもって私たちの五感を揺さぶります。この衝撃を青年期に経験できたかどうか。それは人生にとって大きな意味を持つと思います。
     しかし、同時に、そこから一歩踏み出して、こうした社会や現状を作り出した背景は何なのかと考えること、それは極めて重要です。そのために私たちは大学で学問を学びます。私の講義科目の一つである経済発展(東アジアの経済発展)という科目は、まさにアジアの成長の歴史と経験を、理論やデータを用いて学んでいく科目です。海外に出て感じる「感覚」と、データとして表れるギャップ。それをどう説明すればいいのか。若い皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。
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矢口 優 教授

インド南部の環境に配慮した農業と貧困削減に強い関心

矢口 優 教授



矢口 優 教授
米国アイオワ州立大学大学院留学を経て、東京都立大学大学院で博士号取得。その後、(財)国際開発高等教育機構リサーチ・フェロー、アジア開発銀行研究所研究員を経て、2005年に拓殖大学へ赴任。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 当時(1980年代中頃)は、日本の大学で「国際○○学部」といった学部が新設され始めた最初の「国際ブーム」があった頃で、自分もそうした流れの中で、国際的な問題、なかでも貧しい人々の飢餓問題をなんとか解決したいという気概を持って、ある大学で出来たばかりの国際政治経済学部に入りました。
    しかしそこで待っていたのは、自分の語学力のなさを痛感したことでした。語学教育に力を入れている学部で、英語だけで週7コマもあって、第2外国語のフランス語もフランス人による英語での授業でした。しかも周りにいる友人の多くは英語には自信を持っていて、帰国子女でなくても聞き取りも会話力も自分とは段違いに上手で、とにかく英語力に対するひどい劣等感を持って大学生活が始まりました。ただ、劣等感をもって何もしないのではなく、少しでも英語力を向上させようといろいろと地味な勉強を続けてはいました。自宅から大学までが遠かったこともあり、行き帰りの電車の中では英語のリスニング関係のテープ教材を聞いたり、英語の予習をしたり。それが後々、少しずつ効いてくるわけです。
    それから今の自分につながるという意味では、大学3年の夏に、韓国のソウルに20日ほど滞在したことが思い出深いですね。自分でアルバイトして稼いだお金で、自分ですべてをアレンジしての旅行でした。隣国なのに言葉、人、食べ物、文化などなど、いろんな意味で韓国をあまりに知らなかったことで、いい意味でショックを受けました。そして、当時オリンピック開催を1年後に控え、登り調子の真っ只中にあった韓国の経済発展の様子をまざまざと見たことで、この国をもっと知りたい、そして韓国のような順調な経済発展を途上国が遂げるにはどうすればいいのかをもっと学ぶためには、残り2年あまりでは短い、大学院でも勉強をしたいなと思うようになりました。
  • 大学院に進学したということは、当然、成績も良かったんですよね?
  • それがですね、成績は決して悪くはないけど、良くもなかった(笑)。授業にはまじめに出ていて学期末の試験に困るようなことは一度もなかったのだけど、成績は中の上くらいの普通の学生だったんですよ。そして、当時は文系で大学院に行く人もほとんどなく、ましてそんな並みの成績の学生が大学院進学を目指すのは前例がなかったようで、周りからはやや心配もされました。また当時はバブル景気の絶頂期で、就職活動を何もしなくても名だたる企業の方から、「うちに就職しませんか」というような誘いの電話がかかってくるような時代で、迷いもありました。でも、最終的にはそういう雰囲気に流されて自分の目標を見失ってしまうのはイヤだったし、学部時代の不勉強を大学院で取り返そうという思いが強く、進学しました。
  • それで大学院では、しっかりと勉強したのですよね?
  • 大学院に入ってからは、とにかく学部時代の不十分だった勉強を取り戻すように、ものすごく勉強しました。そのうえ運が良かったのは、自分の意識が変わってきたそのタイミングで、大学の方も新しい学部ということで、次から次へと超一流の先生をあちこちの大学から引き抜いてきて、いわば学部の黄金期に学べたということは何にも代え難い経験でしたね。研究者として世界レベルの研究をされていて、学生に教えることにも意識の高い先生が多く、また多くの先生が留学を奨めてくださるような環境だったこともありました。一部の授業は英語だったし、教科書もすべて英米の大学院生が使うものと同じだったから、経済学の基礎の勉強と同時に経済学に直結する英語力も伸びながら、一流の研究とはどういうものかということも学べ、自分の学問上の基礎はすべてその時に叩き込まれましたね。
  • その後、今度はアメリカの大学院に行かれたということですが、そのいきさつは?
  • 今いったような感じで、恵まれた環境で高いレベルの勉強をしていると、人間はさらに欲が出るのか、より高いレベルの勉強をしたくなり、やはり経済学ではNo.1であるアメリカの大学院で学びたいという気持ちが強くなっていきました。そんな中で、留学のためにロータリー財団の奨学金に応募したら、運良く受かってしまいました。後から聞いたら、ものすごく倍率が高く、選考が厳しいことで有名な奨学金だったようですが、「知らぬが仏」という言葉もあるように、よくわからずに応募したし、学部時代の自分の成績では通らないだろうと思っていたので、変な気負いもなく選考にのぞめたことが良かったんだと思います。人生には、何をしてもうまく行くタイミングがあると思うけど、ボクの場合はおそらくこの頃なんでしょうね。
  • 国際学部に赴任することになった理由、状況についてお話いただけますか?
  • 国際学部で経済開発系の教科を担当していた前任者が、2005年に個人的な事情で退職することがありました。その方とは、じつは大学院以来の20年あまりの付き合いなのですが、当時、職を探していたボクに連絡を取ってくださり、候補者の1人として応募して選考されました。
    それから、これは話し始めると自分の学生時代に戻りますが、国際学部の一部の教員とはその前からご縁があります。大学4年生の冬にアジア経済について学生シンポジウムがあり、ボクはそこで発表をしたのですが、コメンテイターとして、当時は他大学におられた渡辺利夫名誉教授や大学院を出て助手をされていた杜進先生などもいらしていて、その場でいろいろと話しをさせていただきました。まさか、当時は自分がその先生方と同じような経済学の教員となるとは思ってもいなかったし、まして同じ職場で一緒の場に立つとは思ってもいませんでした。縁や運命というのは不思議なものですね。
  • 矢口先生はアジアの中でも、南アジア(インド、バングラデシュ、パキスタンなど)に行かれることが多く、インドの研究者を招いての特別講義やゼミ生を連れてインドへのゼミ旅行もされているようですが、どうして南アジアを研究対象にされ、またどのような研究をしているのですか?
  • これはですね、拓大に赴任した頃に自分独自の研究テーマを決めたくて、研究対象となるインドでのプロジェクトと研究パートナーを長年の知り合いに紹介されました。そういう意味では最初にインドを選んだというのは消極的な選択でした(笑)。ただ、始めてみると、同じアジアの中でもそれまでの自分の関心がより強かった東アジアや東南アジア地域とは似た部分もある反面、違うことや、いろいろな発見があるたびにワクワクします。もちろん、南アジア各地でのいろいろな種類のカレーや食べ物も大好きで、いろいろな食が堪能できるのも現地調査の隠れた楽しみです。
    これまで取り組んだ研究の一つは、インドでも南部の稲作地帯で米を中心とした作物栽培と酪農で環境にも配慮した取り組みが行われていて、それが貧困削減にもつながっている状況を開発経済学や農業経済学の視点から分析していることです。基本的な流れは、作物栽培で不要となる収穫後の作物の茎や葉を酪農部門でえさや堆肥として有効活用し、一方で酪農からでる糞尿も堆肥として作物栽培に用いることで収量増につながります。ここで大事なことは、なにかものすごい技術が開発されて農村に導入されたとかいうのではなく、農村でそれまで軽視されていた廃棄物を有効利用したら、不要な廃棄物は無くなるし、皆が経済的に得をしながら環境にもやさしい資源循環が生まれていることです。
    また、バングラデシュやパキスタンでは、携帯電話の普及が低所得層にも広まっていて、それを利用した農業情報の伝達、とくに収量の大きな新品種や生産性を高める技術の普及にどのように影響しているかを現地での調査を含めて本格化し始めたところです。
  • これから国際学部に入学を希望している学生や在学生に伝えたいことはありますか?
  • 国際学部の学生だけでなく、最近の若い世代と接していて気になるのが、大きな目標や夢を持っていても、何か困難にぶつかるとすぐにあきらめたり、それ以前に自分には無理だと困難を克服するための努力すらしない人が多いことです。確かに若い時は誰しも大きな目標に立ち向かう果敢さをもっていると同時に、目標が大きいとその大きさに怖じ気づくこともあれば、身の程にあった対応で済ませようとすることはあると思います。自分も学生時代はそういう面もあったのでよくわかるのですが、若いときの挑戦や失敗を過度に怖がったり、恥ずかしがったりしないのが若さの特権なのに、それを自分から否定してしまったり、努力を嫌うのは残念に思います。
    たとえば、前に話した英語力ですが、大学入学当時のボクはクラスでも下の方でした。そして、クラスでペラペラにしゃべる人を見て、自分ではあんな風になるのは無理かもとあきらめかけたことは何度もありました。でも、そこであきらめて立ち止まってしまっていたら、本当にそれで終わりでした。どんなに歩みが小さくてもいいから、少しでも前に進もうと勉強は続けました。そしてどんなに小さなことでもいいから目標をクリアできれば、少しずつでも自信はついてきます。そうすれば、それがどんどんと大きな自信につながり、そして同時に実力も伴ってきます。英語圏の大学院に留学できたこと、国際機関で勤務したこと、拓大の大学院で英語講義をしていることなど、当時の自分からは考えられなかったことだと思います。
    何度も繰り返しになりますが、まず自分の目標なり、夢をもってください。そしてそれに向けて5年くらいは地道にまじめに努力をしてみてください。それだけがんばれば、必ず報われる何かを得るられると保証します!
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横山 真規雄 教授

元拓殖大学教授の大川周明先生に共鳴

横山 真規雄 教授



横山 真規雄 教授
1983年明治大学法学部法律学科卒業、同年、㈱日本興業銀行入行。その後城西大学助手、静岡県立大学専任講師を経て、2000年拓殖大学国際開発学部助教授に就任。2004年教授、現在に至る。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか。
  • 大学は法学部です。とにかく、学生時代は本を読み続ける毎日でしたね・・・。中でも法律の本が大好きでしたので、結果的にはとてもよく勉強する学生でした。今もよく、「横山先生は勉強好きだ・・」と言われるのですが、学生時代と比べると遊んでいるようなものです。何でそんなに勉強したのか、理由は、後でも触れますが、自分自身に不安を感じていたからです。方法は、図書館に籠って朝から晩まで・・、というのではなく、いつでも、どこでも本を読むというやり方です。電車の中でも、バスを待つ時も、授業の合間も、活字を読み続ける、そういう生活でした。もっとも、勉強以外何もしなかったのではなく、高校時代に演劇部だったこともあって、新劇(俳優座、演劇集団円、劇団仲間)の芝居に通い、又、話芸が好きなため寄席(末広亭、浅草演芸場)に出かけては落語を楽しんでいました。しかし、芝居の始まる前や後、寄席の合間にも、決して本を手放しませんでした。
  • 大学卒業後、どのような経歴を歩まれましたか。
  • 大学卒業後に、㈱日本興業銀行(現在のみずほ銀行)に入りました。法律の勉強が大好きなことは知れ渡っていたため、周囲からは本当に驚かれた進路先でした。てっきり、法曹を目指すか、大学院を出て法律の先生になるか、あるいは法律を作る立場の公務員になるものと思われていたからです。銀行に入るというのは、そのため周囲は反対でしたね・・・。しかし、この「回り道」がとてもよかったと思っています。銀行で働くことで、世の中の色々な姿を見るチャンスがあり、今の自分に繋がる「視野」が広がったと思っています。
  • 銀行在職中にはどんな仕事をなさっていましたか。また、そこで人生の転機となるような出来事がありましたか。
  • 銀行では最初本店で為替の仕事を担当していたのですが、ずっと法律の勉強は続けていました。又、国際的法律問題を扱う部署があり、その研究会に参加させてもらい、豊富な経験を持った先生や弁護士の方に丁寧な指導を受けていました。そうこうしている時、高校の先生が、城西大学に先生の口がある・・・、と声を掛けてくれ、それで大学の先生の道を歩み始めました。銀行の先輩の方にも、大学の先生になる方がポチポチいたので、「なるならば早い方がいい」との思いもありました。27歳の時です。その後、城西大学から静岡県立大学国際関係学部に転出し、更に拓殖大学に移ってきました。そのため教員歴は長く、20年を超えていますが、このような生き方ができたことを感謝しています。
  • 横山先生はなぜ拓殖大学国際学部に来るようになったのですか。
  • 何と言っても「元拓殖大学教授の大川周明先生(1886年~1957年)」の存在が大きいです。 大学時代には、他大学や他学部の有名授業にせっせと「潜って」は、色々と面白く話しを聞いて勉強していました。その中の一つ、日本政治思想史の泰斗、橋川文三先生が、大川先生のことを「和魂洋才」を体現化し、壮大な思想を持った人物と高く評価していました。早速、図書館で大川先生の著書を読んでから、すっかりファンとなり、以来、勉強を続けています。その大川先生が目指した「アジア社会の共生と相互発展」をテーマに、いよいよ拓殖大学で新学部が出来ると知り、本学部に参りました。もっとも、軽く挨拶した程度だったのですが、あれよ、あれよと言う間に話が進んでいき、始め些か戸惑いました。しかし、これも大川先生のお導きと思い、慣れ親しんだ静岡を引き払って転任してきたのです。
  • 現在のご専門・研究内容についてわかりやすく説明してください。
  • 広く言えば、国際法学という分野です。その中でも、「国際私法・国際経済法・国際取引法・EU法」という分野について研究しています。本当に面白い勉強で、全く飽きることがない毎日です。
  • 国際法学の分野で現在取り組んでいるテーマはどんなことですか。
  • 国際的視点から法律を勉強していると、段々と日本のことが気になってきます。大川先生が国際的広がりを持った学問をしながら、一方で日本精神に終生関心を持った理由もよくわかる気持ちがします。今は、日本の法文化に、どうやって国際的視野を根付かせるか、そのテーマの検討をしています。
  • 最後に学生へのメッセージをお願いいたします。
  • 「不安の時代」と言われ、「癒し」を求める風潮が高いようですね。しかし、本当に癒されれば不安がなくなるのでしょうか。
    長年、舞台俳優を近くから見ていますが、これほど不安定な商売はありません。舞台の収入は殆どありませんし、アルバイトもやりにくい、やってもワーキングプアで将来の保障も何もない、という経済的にも精神的にも肉体的にも厳しい職業です。
    そんな不安一杯で堪らないはずの舞台俳優に向かって、俳優座の演出家であった「千田是也先生(1904年~1994年)」は、ひたすら「勉強しろ・・勉強しろ」、「飯を食う暇があれば勉強してこい・・・」と言っていました。聞いていて何とも衝撃を受けましたが、今、改めて考えて見ると千田先生は実に正しいと思います。勉強して、知識を増やし、思想を深め、自分を高めるという方法しか、我々を取り巻く、「不安を押さえる」方法はないように思うからです。不安の時代だからこそ、大学ではしっかりと「勉強して欲しい」と思っています。大学では色々な勉強との出会いの可能性があります。何かに向かって我を忘れて取り組んでいけば、充実した人生を将来にわたり歩めると確信しています。

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吉野 文雄 教授

東南アジア諸国の経済連携の効果について研究

吉野 文雄 教授



吉野 文雄 教授
1981年大学卒業後、早稲田大学大学院へ進学。1989年高崎経済大学講師、助教授を経て、1996年拓殖大学海外事情研究所助教授。同教授を経て、2012年より国際学部教授。
  • 先生は大学時代にどのような学生生活を送られていましたか?
  • 特別に部活動などせず、のんびりしていました。大学3年生のときは、映画ばかり見ていて単位が取れなかったので、4年生では14科目合格しないと卒業できないような状況でした。なんとか合格したのでよかったです。
  • そのような学生生活を送っていて、なぜ研究者を志すようになったのですか?
  • 小学生の時から、将来は「新聞記者か大学教授」と進路を決めていました。その意味ではあきらめなかったというかもしれませんが、巡り合った先生がよい方たちばかりでしたので、幸運でした。いずれの先生も、「この本を読まなければだめだ」とか「そんなものを書いちゃだめだ」というようなことはおっしゃらず、自由に勉強させてくれ、困ったときに相談に乗ってくれる感じでした。学生に接するようになって、自分もそのような先生になりたいと思っています。
  • 大学院生の頃になにか印象に残るエピソードや人生の転機となるような出来事があったのでしょうか。
  • 人生の転機というのは、東南アジアをバックパッカーとして旅行したことでしょうか。これにはいくつかの意味があります。まず、私が学生だった1980年前後、中国はほぼ鎖国状態で、事実上入国できなかったので、アジアというと中国以外なのです。もう1つの意味は、インドとかパキスタンといった南アジア、西アジアには勇気がなくて行けなかったということです。
    中国については、その後ほぼすべての省を訪れましたが、未だにインドではチェンナイしか行ったことがありません。なぜ東南アジアを選んだのかと言われれば、インドでも中国でもないから、と答えざるを得ないかもしれません。
  • 拓殖大学国際学部に赴任することになった経緯についてお話いただけますか?
  • 1996年に拓殖大学に来て海外事情研究所で東南アジアを担当していました。2012年、国際学部でこの地域を担当する教員がほしいということで声をかけていただきました。
  • 現在はどのようなことに関心を持たれて研究を進められていますか。
  • TPPという文字がネット上などで飛び交いましたが、そのような経済連携、経済協定の効果に関心を持って研究しています。

    今までの私の研究の成果によると、経済連携協定(EPA)にしろ環太平洋経済連携(TPP)にしろ、あまり大きな効果はないのです。それにもかかわらず、通商政策を担当する官僚をはじめ、農政担当者、農家など、利害関係がある人たちは過大評価しています。

    アジアということでは、やはり中国の行く末に関心があります。かねてより私は、「中国では2020年までに共産党体制は終わる」と言ってきました。政治指導者が人並みの思考力を持っていたら、中国の経済発展と政治の安定のために、現体制が適していないことを理解できるはずです。結局はそうはなりませんでした。共産党体制が終わっても、中国経済は発展を続けるであろうし、政治はよくはなっても悪くはならないと思います。私は中国の将来については極めて楽観的です。

    専門とする東南アジアについては、日本や中国の成長におんぶにだっこの姿勢は相変わらずです。当分の間は自律的な発展を遂げるということはないと考えています。その将来については悲観的です。
  • これから国際学部に入学を希望している学生、とりわけ先生の授業を受講する学生に伝えたいこと、訴えたいことは何でしょうか?
  • 拓殖大学は、「建学の精神」、「教育方針(3つのポリシー)」に従って、学生が求めるあらゆる素材をそろえていると思います。それを活用するもしないも皆さん次第ですので、有意義な学生生活を送っていただきたいと思います。
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